仕事をつくる

私の履歴書 改訂新版
未読
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出版社
日本経済新聞出版

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出版日
2022年08月09日
評点
総合
3.8
明瞭性
4.0
革新性
4.0
応用性
3.5
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おすすめポイント

「人間も建築も、街も社会も、熟しきらず、いつまでもチャレンジングに、青いままありたいものだ」ということばに、著者・安藤忠雄氏の生き方は凝縮されている。

安藤氏は、逆境にいつも挑戦してきた。大学に進学できなくても独学で建築家となり、病気で多くの臓器を切除してもなお、仕事を通して世界と関わることを諦めなかった。

携わったのは建築だけではない。イエール大学や東京大学などで教鞭をとり、学生たちとともに学んだ。社会貢献として、東日本大震災の遺児を支援する「桃・柿育英会」や瀬戸内海の失われた自然風景を取り戻すための「瀬戸内オリーブ基金」の設立も行った。

「経済大国」と謳われたころから、日本では実直さが失われ、経済的な豊かさばかりを求めるようになり、生活文化における本当の豊かさがなくなってしまったことを、著者は憂慮している。だからこそ、建築を通して、文化・生活・社会という、日本人の心の拠りどころ、本当の豊かさの源を求め、つくってきたのではないか。

その原動力は何だろうか。建築の仕事が環境や社会に与える影響に対する責任感と、自分を育ててくれた大阪の街に恩返ししたいという純粋な気持ちが、著者を駆り立てているのではないかと感じた。

本書を通じて、いまの仕事に懸命になること、外に目を向けること、挑戦し続けることの大切さを読み取った。それは人生の問いに対して直接答えを与えてくれるものではない。しかし、著者の生きざまから、自分の人生にも還る何かがきっと見つかるはずだ。

ライター画像
中崎倫子

著者

安藤忠雄(あんどう ただお)
1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、69年安藤忠雄建築研究所を設立。79年「住吉の長屋」で日本建築学会賞。代表作に「光の教会」「地中美術館」「ブルス・ドゥ・コメルス」など。91年ニューヨーク近代美術館、93年パリのポンピドー・センターで個展。イエール大学、コロンビア大学、ハーバード大学の客員教授を務め、97年東京大学教授(03年名誉教授)。93年日本芸術院賞、95年ブリッカー賞、2005年国際建築家連合(UIA)ゴールドメダルなど受賞多数。 10年文化勲章。15年イタリアの星勲章 グランデ・ウフィチャーレ章。21年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章コマンドゥールを日本人建築家として初めて受勲した。

本書の要点

  • 要点
    1
    著者は独学で建築を学んだ。二級建築士の試験のときは、昼食の時間を節約して建築の専門書を読み、日曜日には奈良や京都の寺社で本を広げ、合格した。 3年後の一級建築士の試験も一発で合格した。
  • 要点
    2
    経営者や文化人との出会いが著者を育てた。
  • 要点
    3
    著者は五臓を失っても建築の仕事を続けた。建築の仕事を通じて得られる緊張感こそが、人生の充実と考えるからだ。
  • 要点
    4
    人間にとって必要なのは、自分なりの目標であり、「いつかそこにたどり着く」という希望の光だけだ。

要約

建築は独学で学んだ

独学でつかんだ天職

実家の長屋が改築されるとき若い大工が一心不乱に働いている姿を見て、著者は建築の仕事に興味をもった。

家庭の経済的な理由と学力の問題で大学進学を諦めざるを得なかったため、建築を独学で学んだ。京大や阪大の建築科に行った友人に教科書を買ってもらい、朝起きてから寝るまで、1年間は一歩も外に出ない意気込みでひたすら勉強した。

同じように学ぶ友人もいないため、自分がどこに立っているのか、正しい方向に進んでいるのかさえわからず、不安や孤独と闘う日々が続いた。その暗中模索が、責任ある個人として社会を生き抜くトレーニングになったと著者は考える。

著者が仕事をしながら建築を学ぶことができたのは、古き良き「勇気ある大阪人」のおかげだ。学歴も社会的な実績もない若者に、「人間として面白いから」という理由で仕事を任せてくれたのだ。

20代の初め、アルバイトで住宅の設計などに取り組んでいたものの、二級建築士の資格すら持っていなかった。 絶対に一発で合格しようと覚悟を決め、昼食の時間を節約して建築の専門書を読み、日曜日には奈良や京都の寺社で本を広げ、合格した。3年後の一級建築士の試験も一発で合格した。

著者の生い立ち
Marco_Piunti/gettyimages

著者は、1941年9月、大阪市に生まれた。生まれる前からの約束で、祖父母の養子となった。祖母の安藤キクエが育ての母だ。上方の合理的精神と自立心にあふれる明治の女だった。

終戦後、大阪旭区・森小路の焼け残った長屋に移った。典型的な大阪の下町で、職人の町だ。ちょっとしたことで大げんかになり、時に怒号が飛び交った。

中学2年生のとき、知らない世界があることを著者に教えてくれたのが、数学の杉本先生だった。杉本先生は口癖のように、「数学は美しい」と言った。その真意はわからなかったが、先生の熱心さに、数学にはきっと何かがあると感じていた。性に合っていたのか、数学はおもしろいように理解できた。熱心な大工と数学の杉本先生に出会わなかったら、建築の仕事にたずさわることもなかっただろう。

高校2年生のとき、プロボクサーとしてデビューした。プロボクサーとしてボクシングに励んだのは1年半くらいだが、リングの上で敵と向かい合い、自らを奮い立たせて極限まで闘う貴重な体験だった。最後に頼りになるのは自分の力だけだ。著者にとって、社会もひとつのリングである。

旅の経験

20代半ばのころ、著者は7カ月間外国へ旅をし、多くのことを学んだ。数々の西洋建築を見て歩くうち、「建築とは、人間が集まって語り合う場をつくる行為にほかならない」と気づいた 。

友人からローマのパンテオンとギリシャのパルテノンは見ておくように言われたが、初めて訪れたときは理解できなかった。何度か訪れ、自分なりに解釈を深めていくうちに、「集まりくる人々の心と心をつなぎ、感動を刻み込むのが建築の真の価値なのだ」と、強く認識した。

建築の仕事で学んだこと

大阪人であることの誇り

1980年代終わりごろ、大阪・中之島にある中央公会堂の再生案を著者は考えた。既存の公会堂の外観と構造はそのままに、内部にコンクリートの卵型ホールを挿入する案だ。行政には全く受け入れてもらえなかったが、当時のアサヒビール社長の樋口光太郎氏は、「面白い」と突然事務所を訪ねてきた。その後、樋口氏からは、京都・山崎でアサヒビール大山崎山荘美術館の設計を任された。

中之島プロジェクトを通じて、著者は色々な方に声をかけてもらった。何より驚いたのは、京セラの創業者・稲盛和夫氏からの一言である。「私に公会堂の卵を一つ分けてくれないか」と言うのだ。

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要約公開日 2022.10.14
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