実家の長屋が改築されるとき若い大工が一心不乱に働いている姿を見て、著者は建築の仕事に興味をもった。
家庭の経済的な理由と学力の問題で大学進学を諦めざるを得なかったため、建築を独学で学んだ。京大や阪大の建築科に行った友人に教科書を買ってもらい、朝起きてから寝るまで、1年間は一歩も外に出ない意気込みでひたすら勉強した。
同じように学ぶ友人もいないため、自分がどこに立っているのか、正しい方向に進んでいるのかさえわからず、不安や孤独と闘う日々が続いた。その暗中模索が、責任ある個人として社会を生き抜くトレーニングになったと著者は考える。
著者が仕事をしながら建築を学ぶことができたのは、古き良き「勇気ある大阪人」のおかげだ。学歴も社会的な実績もない若者に、「人間として面白いから」という理由で仕事を任せてくれたのだ。
20代の初め、アルバイトで住宅の設計などに取り組んでいたものの、二級建築士の資格すら持っていなかった。 絶対に一発で合格しようと覚悟を決め、昼食の時間を節約して建築の専門書を読み、日曜日には奈良や京都の寺社で本を広げ、合格した。3年後の一級建築士の試験も一発で合格した。
著者は、1941年9月、大阪市に生まれた。生まれる前からの約束で、祖父母の養子となった。祖母の安藤キクエが育ての母だ。上方の合理的精神と自立心にあふれる明治の女だった。
終戦後、大阪旭区・森小路の焼け残った長屋に移った。典型的な大阪の下町で、職人の町だ。ちょっとしたことで大げんかになり、時に怒号が飛び交った。
中学2年生のとき、知らない世界があることを著者に教えてくれたのが、数学の杉本先生だった。杉本先生は口癖のように、「数学は美しい」と言った。その真意はわからなかったが、先生の熱心さに、数学にはきっと何かがあると感じていた。性に合っていたのか、数学はおもしろいように理解できた。熱心な大工と数学の杉本先生に出会わなかったら、建築の仕事にたずさわることもなかっただろう。
高校2年生のとき、プロボクサーとしてデビューした。プロボクサーとしてボクシングに励んだのは1年半くらいだが、リングの上で敵と向かい合い、自らを奮い立たせて極限まで闘う貴重な体験だった。最後に頼りになるのは自分の力だけだ。著者にとって、社会もひとつのリングである。
20代半ばのころ、著者は7カ月間外国へ旅をし、多くのことを学んだ。数々の西洋建築を見て歩くうち、「建築とは、人間が集まって語り合う場をつくる行為にほかならない」と気づいた 。
友人からローマのパンテオンとギリシャのパルテノンは見ておくように言われたが、初めて訪れたときは理解できなかった。何度か訪れ、自分なりに解釈を深めていくうちに、「集まりくる人々の心と心をつなぎ、感動を刻み込むのが建築の真の価値なのだ」と、強く認識した。
1980年代終わりごろ、大阪・中之島にある中央公会堂の再生案を著者は考えた。既存の公会堂の外観と構造はそのままに、内部にコンクリートの卵型ホールを挿入する案だ。行政には全く受け入れてもらえなかったが、当時のアサヒビール社長の樋口光太郎氏は、「面白い」と突然事務所を訪ねてきた。その後、樋口氏からは、京都・山崎でアサヒビール大山崎山荘美術館の設計を任された。
中之島プロジェクトを通じて、著者は色々な方に声をかけてもらった。何より驚いたのは、京セラの創業者・稲盛和夫氏からの一言である。「私に公会堂の卵を一つ分けてくれないか」と言うのだ。
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