1853年、ペリーは黒船を連れて鎖国下の日本にやってきた。突然の外国艦隊の来航、そして大砲三発の威嚇発射に、江戸は驚天動地の大騒ぎとなった。圧倒的な技術力の違いに、江戸幕府は沈黙してしまった。
ところが、多くの人々が意気消沈しているなか、ただ一人、西洋を追い抜こうと意気込む25歳の若者がいた。それが吉田松陰だ。松陰は兵法の専門家であり、西洋諸国を倒そうとしていた。だが、黒船の大砲の威力を目にして、外国のやり方を学んだ方がいいと考えを改めた。当時は海外渡航をすれば死刑であったが、松陰は翌年の黒船の再来航時に、荒波を越えて、黒船の甲板に乗り込んだ。
彼は次のように言い残している。「今ここで海を渡ることが禁じられているのは、たかだか江戸の250年の常識に過ぎないが、今回の事件は、日本の今後3000年の歴史にかかわることだ。くだらない常識に縛られ、日本が沈むのを傍観することは我慢ならなかった」。無防備な侍が、法を犯して命がけで「学ばせてくれ」と挑んでいく。その覚悟と好奇心の異常ぶりに、アメリカ艦隊は恐れを抱き、日本の底力を思い知った。こうして吉田松陰の小さな一歩が、後の「明治維新」という大きな波を生むことになる。
松陰はしきたりを破り、自分の信念を貫く情熱家であった。その一方で、どこでも本を読む、大変な勉強家でもあった。密航で逮捕された後、松陰は江戸から故郷の長州藩(山口県)の萩へと送られ、牢獄で出会った様々な境遇の囚人たちを弟子にすることになる。仮釈放後、松下(まつもと)村という小さな村で塾をはじめた。それが後に伝説となった「松下村塾」である。
松下村塾では、夜を徹して書き写した教科書を用いて、二間の狭い校舎で、松陰が学問を教えていた。その期間はわずか2年半だった。だが、高杉晋作や伊藤博文をはじめとして、結果的に総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創設者2名という数多くのエリートを輩出した。
松陰はなぜこのような教育ができたのだろうか。彼は、いかに生きるかという志を立てることができれば、人生そのものが学問に変わり、あとは生徒が勝手に学んでくれると信じていた。門下生を友人として扱い、入塾希望者には「教えるというようなことはできませんが、ともに勉強しましょう」と寄り添った。教育は、教える者の生き方が学ぶ者を感化してはじめてその成果が得られる。そうした松陰の姿勢が、日本を変える人材を生んだ。
松陰はただの教育者では終わらなかった。幕府の大老・井伊直弼と老中・間部詮勝のやり方に憤慨した松陰は、長州藩に彼らの暗殺用の武器の提供を頼み込み、また牢獄に入ることとなる。弟子たちは、彼を止めようとしたがかなわなかった。そして、松陰は自ら「間部詮勝の暗殺計画」を暴露し、「安政の大獄」の犠牲となった。
松陰は30歳で生涯を閉じたが、松下村塾の弟子たちは彼の思いを継ぎ、後に史上最大の改革「明治維新」を起こすこととなる。この改革は、現在にいたる豊かな近代国家の礎となった。
本書では、心(MIND)、士(LEADERSHIP)、志(VISION)、知(WISDOM)、友(FELLOW)、死(SPIRIT)の章ごとに、松陰の考えと言葉の超訳が紹介されている。要約では、心、志、友、死の言葉の一部をとりあげる。
何かをひらめいたとき、すぐに行動を起こせない人は、いつになってもはじめることができない。そして、十分な知識、道具、気力が完璧にそろう時期が来てからと考える。だが、いくら準備をしても、それらが事の成否を決めることはない。少しでも成功に近づくためには、素早い第一歩が欠かせない。そのうえで、多くの問題点に気づき、丁寧に改善することが大切なのだ。
3,400冊以上の要約が楽しめる