やさしい人は何かするとき、相手の迷惑にならないかをまず考える。迷惑にならないよう念入りに準備し、実際迷惑をかけることもほとんどない。だから、こういう生き方が正しいと思っていることだろう。
だが、迷惑かどうかは相手が決めることだ。迷惑をかけていないつもりでいても、「迷惑だったらしい」と後から聞くこともあれば、迷惑だったかもしれないと思っていても、相手はなんとも思っていない場合もある。迷惑かどうかを気にするくらいやさしい人は、「ご迷惑かもしれませんが」と前置きするくらいで十分だ。相手の迷惑の程度をはかるのには限界があるのだ。
「幸せ」かどうかも本人が決める問題だ。本人が幸せならば幸せで、不幸と思うならば不幸なのだ。
幸せかどうかは自分で決められるのに、不幸のままでいたい人は、不幸をだれかのせいにしている。そして、そのだれかを許さない。だれかのせいにしておけば、自分が不幸であることのつじつまが合うのだ。
いつも急かされている気がするならば、そうしているのは自分自身かもしれないと考えてみよう。急ぐのもゆっくりするのも自分で決められるし、決めていいのだ。
私たちは「有為」の世界に生きている。「有為」は「為すこと有り」と読み、「有畏(畏れ有り)」と書くこともできる。有為の世界にはやるべきことが数えきれないほどある。別の見方をすれば、畏れの多い世界でもある。ご飯を食べないと死んでしまう、勉強しないと将来が不安、仕事をしなければ生活できない……。「これをしないとえらいことになるぞ」という恐怖を土台にしているのが有畏の世界だ。
幼いころに「ちゃんとしないとダメ」「早くしないとダメ」と親から言われたルールを、私たちは鵜呑みにしている。そして、実際に物事を後回しにする人やちゃんとしない人の失敗などを目にすると、親の言ったことは正しかったと思い込むようになる。
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