「孤独死」という言葉がよく聞かれるようになった。誰にも看取られず、気づかれずに死んでいくことである。人間は一人で生まれて一人で死んでいくものだが、それでも孤独の中で死んでいくのは恐ろしいものだ。かつての社会では、二世代、三世代が同居する大家族が一般的だった。家族がいなくとも近所の人や親戚がおり、孤独を感じることはなかった。
一方、現代は、核家族化や未婚率の増加などにより、一人で暮らす人が多くなっている。こうした社会で大切なのは、孤立しないことだ。「孤立」と「孤独」は異なる。「孤独死」も本来「孤立死」と呼ぶべきだ。怖いのは、孤独になることではなく、社会から孤立することなのである。
孤立しないためには、常に人とのつながりを持っておくことだ。そのための簡単な方法がある。挨拶をすることだ。親しくなろうとか、友達になろうなどとは考えなくていい。同じマンションの住人や近所の人など、顔を合わせたらただ挨拶するだけでいい。現代は、昔のように、不愛想にしていても誰かが見守ってくれる社会ではない。自分からつながりをつくる努力をしなければ、すぐに孤立してしまう。
孤独は人間にとって自然なことだが、孤立は社会から放り出されることで、もっとも恐ろしいことである。
私たちは日々、休むことなく何かを考えている。
「考える」という行為には2種類ある。ひとつは何らかの解決策や答えを見つけるために考えること、もうひとつは明確な答えのないことがらについて考えることだ。日々の考えごとの多くは答えを導くためのものだ。しかし、答えがなくとも、人間として考えなければならないこともある。
禅の修行では、禅問答といって、決まった答えのない問いについて考え続ける。なぜあえてそんな問いかけをするのか。それは、深く考えるという行為の大切さを伝えるためだ。いくら考えても答えが見つからないこともある。それでも考えつくして自分の答えを探す大切さに気づくことが、人生なのである。
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