どんな国家も一種の共同体であり、どの共同体も善のために形成されている。あらゆる善の中で最高のものを目指すのが、共同体を包括する最高の共同体としての国家である。
共同体はどのように自然発生するのだろうか。生殖のために男女が組になることは、他の動植物と同じである。また、先を見通せる知性を生まれつき備えた者が支配者となり、肉体労働ができる身体を持つ者が生まれながらの被支配者となって、互いの自然的な性質を活かし、生存のために組になる場合もあるという。このように、男性と女性、主人と奴隷の関係から生活のために生まれた初めての共同体が、家だ。
多くの家から形成された最初の共同体が村である。村が自然に生じるのは、日々の生活のためという以上に、一つの家から分家して形成された場合であろう。最初期の国家が王国であるのも、同じ理由に基づく。家長としての王が支配する家が集まってできたからだ。この国家は、多くの村から形成される究極の共同体である。国家は自足を極限まで達成しており、善く生きるために存在している。自然的に発生した家と村を基礎とする国家もまた、自然的に存在し、これらの共同体にとっての最善状態という究極目的となる。共同体が自然に発生し、国家に至る経緯を見ると、「人間は自然本性的に国家を形成する動物である」ということは明らかである。
蜂などの他の群生動物とは違い、なぜ人間は国家を形成する動物になったのか。それは、動物の中で人間だけが(自然の作った)言葉を持つからである。快・不快であれば動物の声も伝えるが、言葉は有益性と有害性、正義と不正を明示できる。人間だけが、善と悪、正義と不正の感覚を持ち、言葉で共有できるからこそ、家や国家を作り出すのだ。
全体は多くの部分から構成されるが、国家を構成する部分とは多数の市民である。しかし、誰が市民と呼ばれるのか、その定義は論争の的となっている。特定の場所に居住していることをもって市民になるわけではない。たとえば居留外国人もそれに当てはまるが、訴訟などある程度の裁判権を与えられてはいても、子どもや老人と同じような意味で、限定的な表現を必要とする市民である。無条件で市民と規定できるものとは、「裁判の判決への参与と政治的な支配を行う公職への参与」である。そして、この条件を満たす人々が自足した生活を送っていける集団が、国家だ。
国制とは、「万事について最高の権限を持つ公職の組織体系のこと」であり、政府のあり方を規定する。民主制では多数の民衆が最高の権限を持つ、というようなことだ。
人間は自然本性的に国家を形成するので、互いに助け合う必要がないときでも、「ともに生きる」ことへの欲求を持ち続ける。しかし、この欲求だけでなく、「公共的に人々のためになること」としての公共善が人々を集結させてもいる。そのため、誰にとっても、単に生きることだけでなく、立派に生きることが、公共的な面でも個人の生き方の面でも、最大の目的となっている。
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