アシジの聖フランチェスコと聖トマス・アクィナスを比較すると、滑稽なほど対照的なことがわかる。聖トマスは「大きくて重い牛のような人物」であり、悠然として、穏やかで、社交的ではなく、ぼんやりしていた。一方、聖フランチェスコは痩せた小男で、「火のように激しく、せかせかした人柄」であり、情熱的に詩を愛したが、書物にはさほど信用を置かなかった。聖トマスは書物に生き、アリストテレスの哲学に関する書物をこの世のどんな富よりものぞんだ。聖フランチェスコは、中産階級の商店主の息子で、社会的適応性があり活動的だった。聖トマスは、余暇を楽しめるほど高貴な家の生まれで、勤勉でありながらいつでも平静さを保ち続けていた。
二人は、同じ世代や同じ歴史的瞬間に属していたわけではない。この托鉢修道士たちは、双生児というよりも、せいぜい伯父と甥くらいの関係である。それでも彼らを比較することは、実は歴史の核心への近道である。この対照的な二人は、実は同じことをしていたのだから。いずれも「偉大な中世の運動」であり、カトリックの可能性を拡大したことを考えても、むしろこれこそが本物の宗教改革だった。特に、聖トマスは、「キリストをアリストテレスに和解させたのではなく、アリストテレスをキリストに和解させた」という。
二人の偉人は、書斎と街頭というそれぞれの場所で、同一の偉大な仕事に取り組んだ。それは、異教的・異端的なものをキリスト教に持ち込んだのではなく、「キリスト教をキリスト教世界に持ち込む」ということであった。彼らは、教会の権威によって硬直し習慣化していたのとは異なる、「本来のキリスト教」をもたらしたのだ。
聖フランチェスコと聖トマスの二人は、「より合理的、より自然的になった時に、より正統的」となり、「正統的であることによってのみ、合理的で自然的たりえた」。これはどういうことか説明を試みよう。
聖トマスの考え方には、肉体と霊魂の両立した全人性から人間をとらえるという特徴がある。屍体は人間ではないが、亡霊もまた人間ではない。過去にはアウグスティヌスらのように霊魂を唯一のものとして重視する者もいたが、これは、霊魂が獣のからだに生まれかわる可能性をもった東方の輪廻の考えに近づくものである。聖トマスはそれを「正統的ではない」としりぞけた。そして、精神も肉体も自らのものであり、人間はこの二つの均衡と結合にすぎないという、ある面では自然主義的な考えを主張する。これは、物質的なもの、肉体を賛美するヒューマニズムに近い。ただし、「肉身の甦り」と結びついている点で、近代主義(モダニズム)とは正反対とも言える。
啓示を擁護する聖トマスの主張は、合理主義的でありながら、民主的、大衆的である。彼は、万人が理性に耳を傾け、時間さえかければ、全ての人を議論によって納得させられると強く信じていた。全ての素朴な人の霊魂は、思想家や真理探究者と同じように重要であるとする考えは、「科学的探究に対する尊敬の念と平凡な人に対する深い思いやり」を示している。その合理的な思考が目指すのは、神と人間の分離ではなく区別であった。
「多」と「一」に関する古くからの哲学的論争については、聖トマスはギリシアの哲学者たちと袂を分かち、多様性の側に立つ。豚とペリカンが違うのは、私たちがそう確信しているからであり、この考えにおいては豚を創造し給うた神の存在を前提としていた。
トマスはヨーロッパ中の権力者の縁戚者、神聖ローマ皇帝のいとことして生まれた。皇帝の家門に属するアクィノ一族であるランドルフ伯は、七男のトマスを大修道院の院長にするほかにないと考えていた。トマスは、鷹狩や武芸に関心を持たず、大きくずんぐりとしたおとなしい少年で、驚くほど無口だったためだ。この種の人物に適しているのは教会や修道院であると考えられていた。
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