今から約90年前、愛媛県今治市は「四国のマンチェスター」と呼ばれるほど活気に満ちた国内の一大織物産地だった。しかし、1990年代後半から輸入品が激増し、日本のタオル産業は苦境に立たされる。今治タオルは国内生産の4割以上を占めていたが、1991年をピークに、生産数量は5分の1にまで落ち込んでしまった。
こうした苦境は、OEMに依存した商売の代償だったとも言える。1970年代後半から今治のタオルメーカーの仕事の中心はOEMとなり、バーバリーやセリーヌといったブランドのタオルを受託製造するようになった。つくった製品は100パーセント問屋が引き受けてくれるため、メーカーが在庫を抱えることがない。しかし、輸入品が急増し、国産のタオルが売れなくなり、産地の危機が叫ばれるようになったときには、多くのメーカーが企画、営業、販売という術を、問屋に頼る体質になっていたのである。
こうした状況に危機感を抱いた四国タオル工業組合は、2000年から行動を開始した。輸入に歯止めをかけるためにデモ行進を行い、翌年には中国とベトナムから輸入されるタオル製品に対するセーフガードの発動を経済産業省に申請したのだ。
しかし、セーフガードは2004年に未成立が決定した。もしも日本が繊維産業の分野でセーフガードを発動すれば、自動車や重工業の分野で中国が報復に出る可能性がある。小さな地場産業を救うことで日本の基幹産業に影響が出ることは、経産省としても避けたいことだったのだろう。
ただし、経産省は日本の繊維産業を見捨てたわけではなく、独自に小売りに着手しようとする繊維事業者に対して必要な費用の3分の2を補助する計画が打ち出された。組合はこれを受けて「新産地ビジョン」を策定。「産地コーディネーターの導入」「マイスター制や検定試験の導入」「海外でのアピールと出店」といった取り組みが掲げられた。この新産地ビジョンが構築されていたことが、今治タオルに“奇跡の復活”をもたらすことになるブランディング・プロジェクトへと結びつくのである。
佐藤可士和氏の会社『サムライ』のオフィスに、今治の四国タオル工業組合から相談を受けたコンサルタント、富山達章氏が訪ねてきたのは2006年6月のことだった。
このブランディング・プロジェクトを依頼された時点では、「この仕事を引き受けるのは無理かな」という気持ちを抱いていたという。厳しい状況を挽回するためのアイデアは出せるが、それを実行できないのではないかという不安が大きかった。さらに、四国タオル工業組合は借金まみれで、このプロジェクトに使える予算は他の大手企業がブランディングに投入する金額に比べるとケタ違いに少なかった。また、組合は100社以上のメーカーによって構成されており、容易に会社を動かせるような体制ではない。
ところが、その気持ちはたった1分で覆った。「よし、やろう!」という決断をさせたのは、今治のタオルそのものだったという。
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