「さみしい」と聞くと、できれば感じたくないネガティブなものだと感じる人も多いかもしれない。じつは著者の感じ方はその逆で、むしろ誰かと一緒に過ごすのが苦手なタイプだ。さみしいという言葉には、日本特有の美意識である侘び・寂びのように、じっくり静かに噛み締めるもののような、悪くないイメージを持っている。
「孤独」のよさを再評価し、積極的に向き合おうとする主張が増えている一方で、さみしさに端を発したと思われる事件もよく耳にする。さみしさは、ときに人の生きる気力すら奪ってしまうことがある。
現代社会では、ネガティブな感情をすぐ切り替えられる人が高く評価され、さみしさに負けるのは弱者であり、社会で生き残れない不適格者という風潮すらある。だが、さみしさを持つことが生存に不適格であるなら、なぜそのような感情が人間には備わっているのだろうか。
すべての感情には意味がある。その意味を考え、理解していくほうが感情をスムーズに扱えるようになるはずだ。
さみしいという感情は誰のなかにも存在する。なぜ、わたしたちにはさみしいという感情が生じるのか。脳科学や生物学の観点からすると、人という生物の存続のために、なんらかの役割があったからだと考えられる。
乳幼児は、母親の姿が見えなくなった途端に泣き出すことがある。自分を守ってくれる存在がそばにいないということは、未熟な乳幼児にとっては生命の危機である。その危機をさみしさというシグナルで敏感に感じ取り、大声で泣くことによって周囲に知らせていると考えられる。つまり、さみしさは危険に対する防御反応であると同時に、生存を欲する力の淵源でもあるのだ。
人類がここまで生き延びることができたのは、高度な社会性を持つ集団を形成することができたからだ。わたしたちが社会的結びつきを強く欲するのは、さみしさを感じるシステムが「本能」として組み込まれているからではないだろうか。
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