津田梅子

科学への道、大学の夢
未読
津田梅子
津田梅子
科学への道、大学の夢
著者
未読
津田梅子
著者
出版社
東京大学出版会

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出版日
2022年01月19日
評点
総合
3.8
明瞭性
4.0
革新性
4.0
応用性
3.5
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おすすめポイント

教養のある人物を綴るには教養がいる。そのことを痛感させられる書物は世に多くない。本書は、津田梅子の生涯について書かれたものだ。津田梅子といえば、新5000円札の肖像に選ばれたことで飛躍的に知名度を上げた人物だが、何を成したのかは名前ほど広く知られていない。

本書はその人生をただ説明したものではない。豊富な資料を用いて、津田梅子の軌跡と彼女を取り巻く環境を幅広く描いている。最大の特徴は、これまであまり語られなかった生物学者としての梅子に焦点を当てたことである。梅子の人生を「科学とジェンダー」の視点から論じた本としては、唯一無二といってよいだろう。

これを実現するのは、けっして簡単なことではない。

津田梅子が、一体どのような時代背景でどういう価値観をもって行動し、また彼女に関わった人々がどういう思惑を持っていたかなどが、本書を読めば手に取るようにわかる。これを実現するのはけっして簡単なことではない。当時の社会的な状況や、梅子が留学中に取り組んだ生物学、梅子の個人的な人間関係に至るまで、深く広範な知識と分析が必要とされるからだ。膨大な資料を丹念にまとめながらも、全体としては軽快な読み心地を保ちながら、その生涯と彼女の作った私塾のその後を流麗に物語る。詳しくてわかりやすい。一読してわかるほどに並々ならぬ労力を割いて作られた本書は、津田梅子の生涯を知りたい人、そしてジェンダーと教育について理解を深めたい人にも、強くおすすめしたい。

著者

古川安(ふるかわ やす)
1948年 静岡県に生まれ,神奈川県育ち
1971年 東京工業大学工学部卒業
同年 帝人株式会社
1983年 米国オクラホマ大学大学院Ph.D.(科学史)取得
1985年 横浜商科大学商学部助教授
1991年 東京電機大学工学部教授
2004年 日本大学生物資源科学部教授などを経て
現在 総合研究大学院大学客員研究員
科学史家,化学史学会前会長,英国化学史学会モリス賞受賞
主要著書 『科学の社会史──ルネサンスから20 世紀まで』(南窓社,1989 年; ちくま学芸文庫,2018年),『化学者たちの京都学派──喜多源逸と日本の化学』(京都大学学術出版会,2017年),Inventing Polymer Science: Staudinger, Carothers, and the Emergence of Macromolecular Chemistry(University of Pennsylvania Press, 1998年).

本書の要点

  • 要点
    1
    梅子は6歳の時にアメリカへと留学する。岩倉使節団に便乗したことで、伊藤博文といった政治家も同船した。梅子はアメリカで優秀な成績を収め、大学教育を経験せずに帰国する。
  • 要点
    2
    梅子は帰国後、華族女学校の英語教師として働いたが、大学教育を受けるために再留学を志すようになり、これを実現させた。
  • 要点
    3
    梅子はブリンマー大学で生物学を履修する。その成績は優秀で、日本人女性としてはおそらくはじめて、学術誌に共同論文が載ることとなった。大学側は彼女に研究者としての道を拓こうとしたが、梅子はこれを断った。帰国後、梅子は英学塾を開いた。

要約

梅子、留学す

父、津田仙

梅子の父、津田仙は欧米の学問や精神を取り込み、在野精神も持ち合わせた農学者・教育者だった。幕府の通訳として訪米し、半年ほどのアメリカ滞在で人生観が変わるほどの影響を受けたという。幕府崩壊後は官職を退き、外国人用のホテルに就職する。客の嗜好に応えるべく、西洋野菜の栽培を試み、梅子も毎日農園に出かけた。

仙はキリスト教に関心を抱いており、1875年に受洗しキリスト教徒となった。そして、彼が傾倒した反官僚主義的・反権力的な農政批判も、キリスト教と不可分であった。さらに仙は教育事業にも力を注ぎ、キリスト教精神に基づく私立学校の創設や運営に関わった。梅子の人生観は父親のキリスト者的啓蒙主義に強く重なるところがあり、また仙の築いた国内外のネットワークも彼女の人生に深い影響を及ぼすこととなる。

6歳にして海を渡る
itoOnz/gettyimages

北海道開拓使次官の黒田清隆はアメリカを視察した際に、アメリカ人女性の教養と社会的地位の高さに驚いた。それは教育によるものだと結論づけた黒田は、賢母育成を目的として、女子教育・家庭教育の必要性を訴えた。女子を官費留学生としてアメリカに派遣するという黒田の建議は政府に承認され、女子留学生の募集が行われた。アメリカに10年、費用は全て政府負担で奨学金も出すという条件である。そして渡航手段は、岩倉使節団に便乗するものとされた。これに津田梅子を含む5名が応募し、派遣が承認されることとなる。当時6歳の梅子を最年少に、最年長でも16歳と幼い少女たちは、父や長兄の決定によって異国の地へとほぼ強制的に送り出されていた。みな旧幕臣の出身であり、明治維新によって失った社会的地位を回復したいという思惑も働いていたと思われる。ただし、送り出した家族らは海外についてかなりの知識を有し、アメリカでの教育の意義を十分に認めていたうえでの判断であった。

こうして幼い梅子は、岩倉使節団の伊藤博文、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允といった、錚々たる顔ぶれとともに海を渡った。梅子はヴィクトリア時代の白人中産階級のプロテスタント家庭たる、チャールズ・ランマン家に預けられることとなった。梅子は8歳の時に両親よりも早い時期にキリスト教の洗礼を受け、同じ留学生の山川捨松と永井繁子も後に入信することとなる。このほかの2人の留学生は、ホームシックにより1年足らずで帰国している。

1878年、梅子はハイスクール・レベルの私立女学校に通った。そこで17科目を履修し、とくに語学、数学、物理、天文で好成績をおさめた。育ての父、チャールズ・ランマンは梅子の聡明さに惜しみない賞賛を送っている。

帰国と葛藤

捨松と繁子は大学を、梅子はハイスクールを卒業してから、帰国の途についた。1882年に再び日本の土を踏んだ梅子は17歳、生涯の友として固い絆で結ばれた3人のうちただ一人大学教育を受けずに帰国した。

帰国後、梅子らは日本政府に失望することとなる。男子留学生とは異なり、梅子ら女子留学生にはなんの受け入れ準備もされていなかったのである。日本婦女の模範として賢母となることを期待していた日本政府の思惑と、日本女性の教育を使命として送り出されたと解していた梅子らの認識との間には、大きな齟齬があったといえる。

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要約公開日 2024.01.13
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