日本の歴史上に名を残したどんな英傑も、彼個人が優れていたというだけではなく、彼を取り巻く集団が高度に開発されており、リーダーを支えていたということがわかっている。人間は個人の素質もさることながら、属する集団から大きく影響を受ける。言い換えれば、集団の中の切磋琢磨、つまり相互啓発によって集団のレベルが高まり、英雄を生み出してきたともいえる。
松下村塾の塾生が松陰に直接学んだのは、数か月から1年あまりである。松陰の没後10年で果たされた明治維新が、松陰の力だけで導かれたというのは過大評価だろう。つまり、塾生たちが村塾でともに学び議論する中で、相互啓発の相乗効果が起こり、時代の変革の力をつけていったという見方ができるのではないだろうか。松陰は彼の死後も塾生たちが自力で育っていく教育システムを作り出したのである。
近世において、庶民教育の代表といえる寺子屋や武士のための藩校、郷学は著しく増加していった。幕末には、儒学、国学、洋学、心学などを学ぶ「私塾」という中等教育以上を担う機関が発達した。その理由は三つある。一つは、各藩が競って武芸以外にも優れた人材育成に力を注ぐようになったためである。二つ目は、鎖国体制を揺るがす国際環境の変化に対処できる人材が求められるようになったためだ。三つ目は、経済力をつけた町人や豪農が、読み書きソロバンを超えた学問の必要性を強く認識し始めたためである。
私塾の特徴は、藩校などの官公立学校と違い、士族と庶民の共学であったことと、弟子のレベルに応じた個性尊重の個人別教育が可能であったことだ。また、私塾では経済社会の発達や科学の進歩に応じた実際の用に役立つ知識や技能の習得を目指すことができた。教育内容は教師の関心とレベルによって決められ、学生側が自主的に学びたい分野と教師を選ぶ形だった。
幕末はまさに私塾の隆盛期と呼べる。社会構造の変化のうねりとともに、日本固有の文化や精神を明らかにしていこうとする国学の研究も進んでいった。国学に端を発し、「本来の日本は君主主体の政体であるべきだ」という反幕思想が生まれ、その流れの中で松下村塾が誕生した。
奇兵隊を創設し、明治維新の発火点となった高杉晋作は、久坂玄瑞とともに「村塾の双璧」と称されるほど優秀であった。彼が村塾に入門したいと申し出たとき、松陰はこう答えた。「高杉くん、いっしょに励みましょう」。松陰は、弟子入りの希望者に「あなたは私に何を教えることができますか」と質問することもあったと言う。松陰の学問の学び方についての基本姿勢は、「師匠と弟子が一緒に学び合う」という師弟同行・師弟共学の思想だった。
この思想は彼が獄中にいたときにも遺憾なく発揮されている。獄舎を同じくしていた囚人たちは、向上心を失っていた。松陰は彼らに書道や俳句といった芸や才能を見出して、彼らに師事したいと言い出し、互いに学び合うようにした。他人に師として存在を認められた囚人たちは、勉強を通じて希望を持ち始めた。
現代においても、指導者や監督者はえてして部下に何でも教えなければいけないと思いがちである。しかし、大事なのは、
3,400冊以上の要約が楽しめる