日本にいま必要なのは「訂正する力」である。
日本は、政治が変わらず経済も沈んだままで、行き詰まっている。「大胆な改革が必要だ」とメディアは叫ぶが、何も進展してはいない。
もし日本が変わるとしたら、そこで必要なのは「トップダウンによる派手な改革ではなく、ひとりひとりがそれぞれの現場で現状を少しずつ変えていくような地道な努力」だろう。そういった小さな変革を後押しするためには、蓄積されてきた過去を「再解釈」し、現在に蘇らせるための哲学が必要だ。本書が言う「訂正する力」とは、そうして「現在と過去をつなぎなおす力」のことだ。
日本には「変化=訂正を嫌う文化」がある。政治家は謝らず、官僚はまちがいを認めない。決定された計画を変更しようとしない。ネットでは過去の発言と矛盾すると炎上する。異なる立場の人たちが対話によって少しずつ意見を変えていくこともできず、政治的な議論が成立しなくなっている。だからこそ、「まちがいを認めて改めるという『訂正する力』」が必要なのだ。
訂正するとは、「一貫性を持ちながら変わっていくこと」だ。これは決して難しいことではなく、我々が日常的に行っていることである。
ヨーロッパの人々は、訂正がうまい。新型コロナウイルスの感染拡大で、イギリスは大規模なロックダウンをしたが、事態が収まってくると、最初から大したことがないと気づいていた、と言わんばかりにマスクを外していった。ヨーロッパの国々は、ルールを容赦なく変えて自分たちに有利な状況をつくり出しながらも、一方で行動や指針が一貫して見えるように一定の理屈を立ててもいる。そういった「ごまかしをすることで持続しつつ訂正していく」のが、「ヨーロッパ的な知性のあり方」なのだ。本来は日本もこうしたしたたかさを持っていたはずだが、それが失われてしまっている現状がある。
では、「どうすれば訂正する力を取り戻すことができる」のだろうか。現代日本では、社会の無意識的なルール、すなわち「空気」がつねに障害となっている。個人が他人を気にするだけでなく、その他人自身もまた他の人の目を気にするという厄介な入れ子構造をもつ。そうして相互に監視するなかで、「だれもが社会の無意識なルールにしたがってしまう」。空気の変化の切れ目はだれにもわからないし、コントロールもできない。空気を批判しようとしても、その批判そのものが空気になり、しまいにはそうした「新たな問題提起に考えなしに追随するひとが現れてしまう」。極めて厄介な構造である。
こうした空気は、「変えましょう」といってもそれが新たな空気になるだけだ。だから、その空気のなかにいながらにして、「いつのまにか変わる」ように仕向けるしかない。そうしたアクロバティックなことを成し遂げるための道具が「訂正する力」なのだ。
これは、フランスの哲学者、ジャック・デリダが唱えた「脱構築」に似ている。表面上は伝統的なルールに従っているように見せながら、そのルールを突き詰めて考えることで、西洋的な哲学の型を根本的に変えてしまう。そうした脱構築的な手法しか、日本に対して有効な手立てはないかもしれない。
水面下でルールを訂正しながら、「いや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張する。そうして、「現在の状況に対応しながら過去との一貫性も守る」という「両面戦略が不可欠」なのだ。
そもそも訂正とはなんだろうか。「訂正の本質はある種の『メタ意識』にある」。無意識的な自分の行いに対して、違和感を覚えたりするときに「訂正の契機」は生まれる。
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