ある夫妻は、小児麻痺によって車椅子での生活を送ることになった娘を心から愛していた。2人の愛情がもっとも強く発揮されたのは、夫妻がその一生を終える少し前だ。一家を乗せた列車が河口にさしかかったとき、突如鉄橋が崩壊し、列車は水面へ落ちていった。車内に水が押し寄せる中、夫妻は無我夢中で娘を窓の外に押し出した。そして夫妻は沈みゆく列車の中でその生涯に幕を閉じた。
2人の行動は愛という情動の力を雄弁に物語る。心の奥底から湧いてくる熱情や願望は、人間という種の存続を支えてきた凄まじい力だ。強い愛情は、自分が助かりたいという生存本能を超える力を持つのである。進化の過程で情動がこれほどまでの力を得た理由について、社会生物学者は、理性だけでは立ち行かないような局面で、情動が人間の行動を導く必要があったのだと指摘する。長い長い進化の歴史の中で、情動が最も効果を発揮する場面とそのパターンが神経に刻み込まれてきたのである。
人間は理性を持った人(ホモ・サピエンス)と呼ばれるが、実際の人間は理性と同じか、あるいはそれ以上に情動の力に頼っているものだ。感情が人間を支配するとき、理性は全く手も足も出ないのだ。
情動は生死の分かれ目における即座の反応を促す役割も担い、人間を効果的に生存へと導いてきた。しかし、そんな情動は文明の誕生によって時代遅れになってしまった。古代の法や倫理はどれも、情動に流されがちな人間を厳しく律しようとする。人間社会は情動を外側から規制するしかなかったのである。
しかし、それで大人しくしている情動ではない。人間の情動は百万年という途方もない時間をかけて作り出された。文明が急速に発展したとはいえ、その間に情動を生み出す仕組みはほとんど何も変わっていない。社会が発展しても情動は文明が生まれる以前の仕様のままなのである。このジレンマと向き合い、情動とどう付き合っていくかがこの本の中心テーマといえるだろう。
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