「誰かと比較して人を劣った存在だと言うこと」。これが本書における悪口の定義である。「人を傷つけることば」「悪意を持ってことばで攻撃すること」という常識的な定義は一見正しいように思えるが、この発想は間違っているし、ともすれば有害ですらあると本書は考える。だからこそ、まずは悪口がどのようなものか、どういったものと混同されるのかを議論していく。
ほとんどの人間は悪口を言ったり言われたりして暮らしている。どうしてこのことばが悪口になって、あのことばは悪口にならないのか。なぜ少し冗談を言っただけで悪人扱いされないといけないのか。そうした疑問を持ったことのある人は、本書からその答えを見つけることができるかもしれない。
また悪口に悩んだことがある人についても、少しばかりの助けになるだろう。個人的な体験と結びつきやすい悪口について考えようとすると、心がざわつきやすいものだ。しかし、学問的に悪口を考えることで、一歩引いた立ち位置から悪口をとらえることができる。
具体的な問題や悩み事を解決に導くことはできないが、「悪口」と呼ばれるものを正しく理解することで、それとのつき合い方もわかっていくだろう。
「なぜ悪口は悪いの?」という疑問に答えるのは、実はそれほど簡単ではない。「人を傷つけるから」。これがもっとも常識的な答えだろう。それは、殴ると相手が傷つくから、というのと同じ理屈だ。しかし、この理屈だけでは悪口の悪さをうまく説明できない。なぜなら悪口以外にも人を傷つけてしまうことばはたくさんあるからだ。「残念ながら不合格です」「私たち別れよう」。こうしたことばは人を傷つけてしまうが、悪口ではない。つまり、人を傷つけることは悪口の十分条件ではないのだ。また、相手が傷つかなくても悪口になることはある。だから、人を傷つけることは悪口の必要条件でもない。
悪口がいけないのは、「悪意があるからだ」という考えもある。我々は誰かを意図的に傷つけようとして悪口を言うことがある。悪口が悪いのも、それで傷つくのも、言う側に悪意があるせいだ、という発想だ。
しかし、人は悪意がなくても悪口を言うことができる。無邪気な子どもは、悪意などなくても「嫌い」「くさい」などのことばを放って大人の反応を面白がる。悪口を超える差別的発言でさえ、本人は悪意なく言ってしまっている場合がある。どんな気持ちで言ったとしても、差別的発言は差別的発言だ。事故で相手に怪我をさせられた人に、「よかったねーわざとじゃなかったんだって!」と言う人がいないように、不適切な発言も悪意がなければ罪がなくなるというものではない。
ではどうして悪口は悪いのか。ここからは社会の中の立場という「ランク」という概念から悪口について考察を深めていく。
悪口でよく使われる「きもい」「うざい」ということばは、何かと比較するためのことばの仲間に分類される。「うざい」という言葉を使う人は、自分は「うざくない」と思っていて、相手は「うざい」、つまり自分より劣っていると言っていることになる。
優劣は「上下」のランキングとしても理解することができる。悪口を言うことは、自分が所属するコミュニティの中で標的よりも自分のほうが上位にいることを表明する。悪口は標的のランクを下げる役割がある。この観点から考えると、悪口の内容そのものは重要ではない。相手を軽んじる表現を使って呼ぶ事実そのものが、社会的な影響を与える。
悪口を言われて困るのは、悪口を言っている人から「なめられる」こと、さらに他の人からも「なめられる」ようになっていくということだ。たとえば、足の遅い人が「なめくじ」と悪口を言われたとする。そこで本人が平気そうな顔をしていると、周囲もその人を標的扱いしてもいいと認識する。
悪口は標的のランクを下げて社会的な位置を危うくする。言われたほうはそのせいで生きづらくなる。だから悪口は不快だし嫌がられ、そして屈辱的なのである。
悪口が悪いのは、こうした序列を生み出し、ある人を他や自分よりも劣った存在として扱うことは悪いことだからだ。
人間は比較せずにはいられない生物だ。テストや店の売り上げ、住みたい街などとにかくランキングを作りたがる。その中で自分が上位にいればいい気分になり、身近な人が上位にいれば感心したり、あるいは嫉妬したりする。
ランキングは、「記述のランキング」「優劣のランキング」「存在のランキング」の3つに区別することができる。これを知っておくと、比較の生み出す嫌なところを回避するのに役立つはずだ。
そもそも人間同士を比較できるのは、ひとりとして同じ人がいないからだ。一卵性の双子ですらも、必ずどこか違うところがある。何らかの観点で人に値を割り振って順番に並べる、これがランキングだ。
それぞれの人の身長という値に着目する「背の順」は、単なる事実を記して述べる方法であるので、「記述」のランキングだと考えることができる。期末テストの点数、短距離走のタイム、これらも単なる事実なので記述のランキングにすることができる。
こうした「単なる事実」を、私たちはすぐ「優劣」と混同してしまう。身長が高いほうが良いという価値観を持っていれば、背の順は優劣のランキングだが、身長自体に良し悪しが含まれているわけではない。私たちがそこに意義を見つけて、優劣として解釈しているのである。
記述のランキングそのものはただの事実だが、そこになんらかの価値を見出すことで優劣のランキングが重なる。前者は普遍的だが後者は受け取る側によって異なり、一律とは言えない。
なお、順位をつけて競争すること自体は絶対的に悪いわけではない。競技も切磋琢磨も好ましいことだし、同じ評価軸でいい結果を残した人が評価されることも大事だ。重要なのは「評価する」ことと、どんな人でも同じように人として「尊重する」ことの区別だ。
記述のランキングは特定の項目のみを評価する。人を評価する基準はたくさんあるため、あるランキングで上位だった人が他のランキングでも上位だとは限らない。しかし、我々はこうした違いを一切無視して、人物そのもののランキングを作ることがある。「人として上」「人間的に下」というような考えだ。これが「存在のランキング」だ。
存在のランキングは歴史的にものの種類を分類するために用いられ、世界観の一部にもなってきた。18世紀の博物学者シャルル・ボネが表した「自然物の階梯」と呼ばれる生物のランキングでは、一番上に人類、その下にオランウータンなどが置かれ、ヘビやなめくじは下位、物質は最下層に位置付けられている。こうしたランキングは、特定の数値の多い/少ないを表しているのではなく、何らかの価値観に基づいて優劣がつけられている。存在のランキングは序列が固定化され、ほとんどかまったく変わらない点が特徴だ。人間は「本来的に」猿より上で、ここにキリスト教的な世界観が加われば神や天使が人よりも上位の存在となり、神や天使に似ている人間が他の生物を支配する存在となる。
上下関係に基づいて世界を分類するのは、私たちにとっては当たり前の発想だ。もっと分類を細かくし、人間の中でも「種類」を見出して上下を定義するような試みもされてきた。その代表例がレイシズム(人種差別主義)やセクシズム(性差別主義)である。ある種類の人間は他の種類の人間よりも劣っているから、従属するのが当然だという態度もこの一種である。
現代の生物学において、人種に基づいた区別は科学的な根拠がない。仮にある集団の特徴と別の集団の特徴を計測して並べることができたとしても、それは記述のランキングであり、ある特定の価値観に基づいた優劣のランキングではないし、ましてや存在のランキングでもない。
私たちは、人種や性別だけでなく、親の年収や居住地などで人を分類し、それに基づいた存在のランキングを作成する。そして、そうしたランキングを容認したかのような行動をとってしまう。「職業に貴賎なし」と言われているが、相手の職種によって態度を変える人は今もなおいる。市議会議員には丁寧に接するのに、喫茶店の店員には高圧的、などがそれにあたる。人にどう接するか、人がどう扱われるかという「処遇」は、ランキングを考えるうえで重要な観点だ。
なぜ悪口は面白いのだろうか。面白い、というと反対する人もいるかもしれない。けれども、悪口が誰にでもつまらないものだったら、どこにでも悪口があることの説明がつかない。少なくとも「ときどき」は、(特にそれを発言する人にとっては)悪口は楽しくて面白いという側面がある。
笑いにたいする研究からこの点をもう少し掘り下げてみよう。イギリスの哲学者トマス・ホッブズの「優越説」によると、笑いというものは「あざけり」や「あなどり」に近いもので、人間のダメなところを喜ぶことによって生じる。
もちろんすべての笑いを優越説のみで説明しきるのは難しいかもしれないが、人の失敗や欠点を面白がる部分があるのは誰も否定できないだろう。そう考えると、悪口が面白さや楽しさにつながることも不思議ではない。単にダメな点を指摘するのが面白いのではなく、比較の結果自分よりも不出来だと認識するのが面白いのだ。
ポジティブなイメージがある笑いと、ネガティブなイメージがある悪口には、じつはいくつかの共通点がある。どちらもリラックスした状態のときに生まれ、もっぱら人間に対して向けられる。さらに、どちらも社会的な集団を必要とし、緊張感や相手への共感によってその切れ味が鈍る点も同じだ。
何かについて笑うとき、そこには「これ面白いよね」などといった価値観の共有がある。悪口も典型的にはなんらかの集団のなかで共有される。そもそも悪口はランクの問題なので、一人であれば成立しようがない。悪口の標的になるのはたいてい社会に生きている人で、直接の関係性がない歴史上の人物などに悪口を言うのは難しい。
笑いも悪口も、集団のなかで広まっていくので、その場の雰囲気に左右されやすい。同じ冗談を言ったときでも、最初に笑う人が出るかどうかで雰囲気が一変する。笑う人が一人いると、その笑いが伝染するのだ。同じように、悪口も最初の一人が言うと広まりやすい。悪口を言っている人が同じ集団の中にいると、それにつられて悪口を言ってしまう人が出てくるのだ。
人類学者たちは、現在は少なくなりつつある狩猟採集民について、多くの調査を行ってきた。カナダの人類学者リチャード・リーは、1960年代にアフリカ大陸南部に住むサン人を調査していた。リーは日頃の感謝をするために、調査に協力してくれている人たちに、500キロを超える大きな牡牛をプレゼントした。それは、複数のキャンプの人たちを満足させるほどたくさんの肉がとれるはずのものだったが、キャンプの人に牡牛のことを伝えると、みんなが口々にバカにするようなことを言い始めた。「やせっぽっちで肉なんかない」「お前は何もわかっていない」と言われ、リーはがっかりしてしまった。
ところが、実際に牡牛が解体されると、たっぷり肉が取れ、集まった人たちはニコニコと喜んで踊りながらふるまわれたシチューを食べていた。あとで聞いたところによると、サン人には狩猟の腕前や持ってきた獲物をバカにする習慣があるというのだ。そうしなければ、狩りがうまくいった若者はすぐに調子に乗って大物ぶり、いつか自尊心で誰かを殺してしまうと考えられている。だから、獲物がたいしたことないとけなして、その人の頭を冷まさせようとするのだ。
サッカーなどのスポーツで同点にするプレーを「イコライザー」(equalizer)と呼ぶが、狩猟採集民の悪口も大物の登場を防ぐためのイコライザーだと言える。
歴史的に、国王や皇帝などの立場が上の存在は、イコライザーとしての悪口の対象になってきた。現実の政治家に対してもイコライザーとしての悪口やジョークはある程度使われてもよいといえるだろう。大物ぶって支配者になってしまいそうな人には、多少悪口を言ってでも牽制する。そうして、「あなたも市民と等しいランクの存在ですよ」と、狩猟採集民族の若者のように頭を冷やしてもらうのだ。
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