嫉妬は誰しも心当たりのある感情だ。隣人が高級車に乗っているのを見たときや同期が自分より早く出世したとき、嫉妬心は静かに芽生え、私たちを苦しめる。
嫉妬感情は悪徳の中でもとくに卑しいものとされている。キリスト教の「七つの大罪」に数えられる傲慢、嫉妬、怒り、強欲、怠惰、暴食、色欲の中でも、嫉妬は断トツで悪名高い。嫉妬にはポジティブな要素がいっさい見当たらないためである。
私たちは通常、嫉妬心を隠す。誰も自らが嫉妬に駆られているとは認めたくないし、何より他人にそのことを知られたくない。結果として嫉妬心は自らを偽装することとなる。
嫉妬感情はどのように定義できるだろうか。
『広辞苑 第五版』の「嫉妬」の項目には「自分よりすぐれた者をねたみそねむこと」とある。
思想的な観点から嫉妬を定義した言説も見てみたい。カントは嫉妬を「他人の幸福が自分の幸福を少しも損なうわけではないのに、他人の幸福をみるのに苦痛を伴うという性癖」と定義している。つまり、嫉妬する者は、自分の利得を最大化しようとしているわけではない。自分が損をしてでも他人の不幸を願うのだ。
またアリストテレスは、自分と同じだと思える人々が嫉妬の対象となると論じている。確かに、何百年も昔の人や、ビル・ゲイツのような桁違いの富豪を妬む人は少ない。
他人の嫉妬の対象にされるのは恐ろしいことだ。とりわけ小さなコミュニティでは、身の破滅につながりかねない。
この点を論じたのが、アメリカの人類学者ジョージ・フォスターだ。フォスターは、人々が他人からの嫉妬を恐れ、防ごうとするとき、その行動には4つの戦略があるとする。
まずは「隠蔽」、妬みの対象となりそうなものを隠すことだ。たとえば大学業界では、自分の就職や異動について、内定段階では公言しないという不文律がある。
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