文章には必ず読んでもらう相手がいる。自分のために書く場合であっても、書くときの自分と読むときの自分は同じではない。個人的な日記は人に見せるものではないが、あとで読んでわからないようでは日記をつける意味がない。日記であってもやはり、読む人のことを考えて書かなければならない。
手紙やはがきのように、読む相手がはっきりしている文章もあれば、印刷物になる原稿で、どこでだれが読むかわからない文章もある。相手あっての文章だと考えると、文章は料理のようなものだということがわかってくる。
料理は作った人も食べるものだが、食べてくれる人がいなければ張り合いがない。うまいと言ってくれる人がいるからこそ、腕をふるう気になるというものだ。
文章は料理だと考えると、まず食べられなくてはならない。何の料理かわからなければ食べてもらえないように、何を言っているのかわからない文章では相手に迷惑だ。誤字、脱字、当て字のたぐいは料理の中の石のようなもので、入っていたら文章を台なしにしてしまう。それから、料理は見てくれだけでなく、栄養がありハラもふくれるということが大事なように、いくら表現にこっていても、中身がなくてはいい文章とは言えない。
なによりも大切なのは、おいしいということだ。どんなに栄養があっても、まずければいい料理ではない。内容がりっぱでも、読みたくないと思われるような文章ではいけないのだ。興味を引かれ、続きが読みたくなり、気がついたら読み終わっていたというのが名文だ。
文章は料理のように、おいしくなければならない。
文章の期限が決まっていると、妙に負担になるものだ。いいものを書こうと意気込むとよけいに気が重くなる。締切りは迫ってくるのに、思うように原稿が進まず、大して急ぎではないほかの仕事に手を出してしまうことさえある。こうなるともう、約束の原稿は書けない。
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