「選び・選ばれる」とは何であろうか。そもそも、「選び・選ばれる」必要はあるのだろうか。
生きるための資源には限りがあるので、いかに「分け合う」かが問題となる。近代以前の身分制度は強制的に所有の偏りを生んだ。それへの不満の高まりに対処するため、体制側は「能力で個人を分ける」という論理を編み出した。「その人は何ができる人なのか?」(メリット)=「能力」を見て、それにもとづき分け合う「能力主義」の考えが、すっかり定着している。
たとえば、独立行政法人労働政策研究・研修機構が発行した「日本労働研究雑誌」2023年7月号において、「労働者も企業に選抜されるように自分自身の生産性を高める努力が必要である」と提言されている。「ありのまま」ではいけない。社会が「求める能力」を身につけなければ評価されない。しかも多くの一般市民はそれに「納得感」を持っている。それがいまの日本社会だ。
この「能力」論の是非について、膨大なデータを分析しつつ半世紀以上前から問うてきたのが社会教育学だ。
たとえば東京大学の本田由紀氏は『教育は何を評価してきたのか』において次のように書いている。「『能力』や『資質』『態度』はいずれも、人間の何らかの状態を呼び表す言葉だが、これらによって呼ばれている『何か』が実際に存在するわけではなく、私たちが自分の周囲の人々の動きや様子の一部をこのように名付けているにすぎない」。こうした虚構ともいえる能力を「正確に」「測る」とか、「伸長」「開発」することなどできるのだろうか。
また、「能力主義」は「本人次第でいかようにも人生を選べる!」と吹聴してきたが、オックスフォード大学の苅谷剛彦氏は「どのような家庭のどのような文化的環境のもとで育つのかが、子どもたちの間に差異をつくりだしていることは否定しがたい」と批判する。
おまけに近年では、「コミュ力」「人間力」「生きる力」のように「能力」の抽象化が進んでいることを教育社会学者は問いただす。競争のルール自体が抽象化され、それが社会の不平等な配分を決めてしまっているのだ。
2022年に帝国データバンクが行った「企業が求める人材像アンケート」では上位に「コミュニケーション能力が高い」「意欲的である」「素直である」といった抽象的な要素が並ぶ。企業は組織が「扱いやすい人」を求め、それに合わせて若者側も「汎用的な能力」を重視するようになっている。
同じく2022年、経済産業省が打ち出した「未来人材ビジョン」では、新しい時代に「必要な能力」を56の項目に整理し、一覧としてまとめている。「能力」という仮構的な概念を疑うどころか、その獲得は当然のことであると大号令を発する。
テストされ、比較され、欠乏をつきつけられ、「能力」獲得命令は私たち個人の無意識下に深く定着し、「正義」となっている。「選ばれる人」になるために無限に続くこの指令に、「もう、疲れました」と言いたくなるのは当然だ。この「能力」の急所を突かなくてはならない。
多くの企業が目標管理制度を取り入れているが、「評価」で唐突に個人単位での振り返りをさせられ、苦しんでいる人も少なくない。ただ、どの部署が偉いとかではなく、自分の持ち場(仕事)はたくさんの人々に支えられているものだ。組織における「貢献度」の見える化とは、そもそも仕事の協働性からして便宜的なものにすぎない。
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