『深夜特急』などで知られる、ノンフィクション作家の沢木耕太郎氏は、35歳という年齢が明らかに人生の節目であったという。35歳のときに子どもが生まれて、子どもの生活時間に合わせて寝起きするようになった。一方、仕事の面では、35歳までは「世間的に新しいものであること」を仕事の基準としていたが、35歳以降は「唯一、手を抜かないこと」がルールとなった。そのルールで今に至るまで働いている。
沢木氏はずっと、フリーランスとしてやってきた。自由に仕事をするということを大切にし、そのために35歳までは、たとえば金銭面などの不自由も甘んじて受けていた。やりたい仕事を自分のスタイルでやるために、仕事なら何でも受けるのではなく、なるべく断りつつ、自分の仕事というものを方向づけていったそうだ。35歳までの時期は、その後の仕事のスタイルの土台を築いた時期でもあった。
自らの経験から、ある時期に耐えて自分の仕事を成し遂げることの大切さを語る。「3年歯を食いしばって名刺の代わりになるような仕事を完成させれば、そこから自由が拓ける」のだ、と。
沢木氏は、専門性をもって書くタイプのノンフィクションライターではない。プロボクサー、カシアス内藤の再起を描く『一瞬の夏』を上梓しても、その後ボクシングの世界にとどまらなかった。戦場カメラマン、ロバート・キャパの報道写真「崩れ落ちる兵士」の真贋に迫る『キャパの十字架』を著したが、もともと写真に詳しかったわけではない。沢木氏は「あらゆることに素人だったし、素人であり続けた」のであり、インタビュアー川村氏は、そのことが大衆との絶対的なつながりを成立させていると指摘している。
また、何か自分一人では成し遂げられない大きなことをするとき、一番強いのは、「ソロで生きられる力のある人が緩やかなパーティを組む」ことだという。新たなパーティに誘ってもらったときのために、そもそもソロで生きていける力をつけておくことが大切なのだ。
秋元康氏は、高校生のときにラジオ番組へ作品を投稿したことがきっかけで、放送作家としての道を歩むことになった。その後、作詞家、映画監督、プロデューサーとしても活躍してきた。
当然、同世代や先輩から嫉妬されてきたであろう秋元氏は、「人の嫉妬はエネルギーになるんだ」と力強く言い放つ。それなりの仕事をすれば、陰で何かしら言われるのは当然のことだ。だから、「中傷でもなんでも全部受け止めて、何かの仕事で完全にオセロをひっくり返すまで闘うしかない」という。
29歳で渡米する前、手がけた番組や曲がヒットしても、秋元氏は自分の仕事にいまひとつ確かな自信を持てずにいた。ニューヨークでの時間は、当初計画していたように勤勉には過ごさなかったが、精神的な開き直りを得ることにつながった。『川の流れのように』はニューヨークで作詞され、それこそ「オセロをひっくり返す」、作詞家としての代表作となった。
生活拠点を移すとき、今の仕事を手放すこと、仕事を人に奪われたりすることへの恐怖はなかったそうだ。あったのは、「直近ではなくて、20年経ったときに自分がやりたいと思っていたことを人にやられていたら、そのほうが取り返しがつかない」という、目先のことにとらわれない考えだった。
秋元氏は、若い人たちへ、「受け仕事だけになるな」と伝えている。周りは、既存のイメージで仕事を発注してくる。
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