はじめてからだの異変に気づいたのは、44歳の冬、1989年2月の夜。雑誌に連載していた原稿を書いているときだった。マス目の横線にピントがあわないのだ。ふと思い、片目をつぶって見たら、左目で見たときだけ、ものが小さく見えるのである。
まずは眼科の医者を訪れた際の診断は、重度の結膜炎、乱視、老眼というものだった。次に病院を訪れたのは、5か月後、熱海のホームドクターの病院で毎年一回受けていた人間ドッグに双子の弟、おすぎと一緒に行ったときである。
その日は偶然眼科の先生がいて、念のため眼底検査をした。結果は網膜剥離で、そのドクターの紹介で腕のいい眼科医がいるという小田原市立病院へ行った。
若手の医師から言われる。「たしかに網膜剥離、なんですが、原因がどうやら目の中に腫瘍ができているみたいですね。腫瘍が大きくなって網膜を突き破っています。」その後1時間ほどで診察室に入ってきた佐伯先生からメラノーマ、つまり「がん」との診断を受けたのだ。
メラノーマは皮膚にできる悪性腫瘍であり、皮膚がんの一種である。佐伯先生によると、放っておくと、左目の腫瘍が視神経から脳に転移し、全身に転移する恐れがあるとのこと。わたしは即座に言った。
「先生、わたしの左目、取ってください。目は2つあります。ひとつなくなっても、もうひとつはまだ見えるんでしょう。」ほう、と先生は感心したように声を上げた。「うむ、あなたのように男らしい人はなかなかいない。」
わたしに男らしいだなんて、と内心苦笑していたくらいで、その時はあまり動揺していなかった。しかし、夕方小田原のうなぎ屋で食事をした際に、おいしいかば焼きを食べているのに味がしない。「砂を噛むような」という感じである。そこではじめて実感した。
「ああ、わたし、やっぱり、がんなんだ。告知されてショックなんだ。」
手術は終わり、がんからはどうやら逃れられた。術後には念のために抗がん剤治療を行う。退院後の8月の終わりに治療を受けたときは、血管が腫れてちょっと痛かった以外は特になんの副作用もなかった。ところが、9月の終わり、突然、髪の毛が抜け始めた。毎朝、鏡と向き合うのが怖くなった。
退院して2週間で仕事に復帰して、テレビの出演から講演会までめじろ押しだった。少ない髪をヘアメイクでふくらましていた。悲しかった。おかしな話だが、がんを宣告されたとき以上に悲しかった。
ではどうこの悲しみに対峙していたかというと、悲しい映画を見る、悲しい本を読む等、自然と悲しみに徹底的にひたることにしたのだ。そのほうが落ち着けた。
ある日、抗がん剤の副作用が消え、髪の毛が再び生えてきた。そのときのうれしさといったらない。ちょうど12月のクリスマスの頃だった。
がんになる前は、いま考えると、ずいぶん格好をつけていたが、がんを体験したあとはそんな自己顕示欲が消えてしまった。一時は控えていたが、今はお酒だって普通に呑む。
今日も一日仕事ができ、楽しいことがあればなおよく、嫌なことがあってもおおかた無事に過ごせたなら、シャンパンでも飲んで、くよくよせずに寝て、また次の日がやってくる。そんな日々が幸せって素直に思える。それでわたしの幸せは十分なのである。
私がはじめて監督した『エンディングノート』は、主に私の父が胃がんを宣告されてから亡くなるまでの半年間を追いかけたドキュメンタリー映画だ。がんを告知された父は、それから間もなく、葬儀やお墓の話、財産分与など、自分の亡くなったあとのことについて、家族に「具体的な覚え書き=エンディングノート」を書き始めた。
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