それは、あまりにあっけない終わり方だった。
「採用が決まった方には、本日中にご連絡を差し上げます」私はジャーナリストになることを夢見ていた。時計の針が午前0時を過ぎる。ついに、携帯電話は鳴らなかった。胃のあたりに重い気持ちを抱えたまま、涙だけが静かに流れていった。こうして私は、就職先が決まらないまま、大学を卒業することになった。
だが往生際の悪い私は、記者になることをあきらめきれなかった。第一志望だった新聞社の、とある編集部に飛び込みで履歴書を持参し、働きたいという意思を伝えた。しばらくして、その編集部から連絡があった。「産休を取る社員がいるので、編集のアルバイトをしないか」という電話だった。手取りは15万に満たなかったが、二つ返事で引き受けた。
あこがれの新聞社での仕事。私の心は躍った。アルバイトをすれば、その熱意が伝わって、次の採用試験では合格できるかもしれない。
しかし、その見通しは甘かった。その後、半年に一度行われるその会社の記者職採用試験に立て続けに落ち、最後には書類選考すら通らくなった。20代という気力も体力も有り余っている時期に、世の中からまったく必要とされず、時間を持て余しているということが、何より耐えがたかった。「私はいつから道を踏み外してしまったのだろう」起きていると、いろいろなことを考えてしまう。嫌なことを忘れ、悩まずにすむ方法は唯一、眠ることだけだった。
そんなとき、私のもとに1通の封筒が届いた。差出人を見ると、ボストン大学教育大学院とある。私は就職活動と同時に、アメリカの大学院にも応募書類を提出していた。そのひとつが実を結んだのだ。それは、私が受け取った、唯一の「合格通知」だった。そして、ボストン大学から「奨学金を出す」という通知も届いた。「せっかく与えられたチャンスなのだから、それを生かしなさい」私の周りで、私以外すべての人がこういうようになった。結局、2005年1月、後ろ髪を引かれる思いでボストンに飛び立った。ジャーナリストになる夢をあきらめるのか? 合格はしたものの、そんな戸惑いを抱えての出発だった。「でも、今は前にすすむしかない」選択の余地などなかった。
その後、私はボストン大学の大学院を卒業し、ユニセフのインド事務所でHIV予防の啓発活動をサポートする業務に携わった。そしてこの公衆衛生という分野にも、興味がどんどん深まっていった。「公衆衛生の仕事をこのまま続けるなら、専門性がなくては話にならない」と感じ、インターネットで情報を集めていたとき、あるニュースが目に飛び込んでくる。
ハーバード大学の公衆衛生大学院でヘルスコミュニケーションの専攻コースが開設されるというのだ。仕事の合間をぬって、急いで願書を提出したのは言うまでもない。ハーバードに出願するのは、これでもう3回目となる。「これで合格できなかったら、この学校とは縁がなかったと諦めよう」と思うこともあった。
2006年の大晦日、ユニセフの仕事もそろそろ終わりに近づいていたときのこと、突然私の携帯電話が鳴った。声の主は、広告会社のアジア太平洋支社の社長だという。
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