コカ・コーラ社のシニア・エグゼクティブとしての第一線を退いたネビル・イズデルは、カリブ海で幸せな引退生活を送り、コカ・コーラのことはほとんど考えなくなっていたほどだった。
当時は当社にとって冬の時代で、在任中に社の時価総額を四〇億ドルから一五〇〇億ドル近くにまで押し上げた伝説的CEO、ロベルト・ゴイズエタが亡くなって以来、収益は落ち、株価は一九九八年のピークから半値になっていた。さらに深刻なことに、社員の士気は地に堕ちていた。コカ・コーラの関係者の一部からは現場復帰を求める電話がかかってきたが、イズデルはきっぱりと断っていた。しかし二〇〇四年の二月、取締役会のメンバーで、元社長として社の歴史に名を残す偉大なリーダーでもあるドナルド・キーオから運命の電話がかかってくる。キーオは当時の会長兼CEOの後任探しのコミッティーの委員長として、イズデルが有力な候補であることをコミッティーに知らせたいのだと言う。
ゴイズエタの後に成功した会長はいない。妻と二人の幸せな引退生活もしばらくおあずけだ。しかし、イズデルの心に引っかかっていたのは、「この究極の挑戦を断ったら、はたして自分を許せるだろうか」という疑問だった。ラグビー選手だった自分への答えは、「いや、絶対に許せない」であった。キーオから電話を受けた一週間後、イズデル氏はショックを受けている妻に、五年だけこの仕事をやるつもりだと決心を伝えた。試合が始まったのである。
コカ・コーラ社は長年にわたり、二人の偉大なリーダーに恵まれてきた。既に述べたゴイズエタとキーオである。しかし、その後を継いだ二人の経営者はいずれも短命に終わっている。
そもそもゴイズエタ時代と同じ業績を永遠に続けることは不可能で、グローバル経済の変化を考えればなおさらだった。一九九八年の上半期は、販売量が一二%伸びたために手あたり次第に人を採用し、ボトラーは工場を建設し、金を借り、いたるところで拡大していた。しかし同年の下半期は販売量の増加がゼロに落ちたことで、間接費は膨らみ、ボトラーは多額の負債を抱えることとなってしまった。
翌年実行された大量人員削減では五〇〇〇人を超える人員が解雇され、雇用と言えばほぼ間違いなく終身雇用を意味したコカ・コーラ社を根本から揺るがすこととなった。当社に費用削減の必要があったのは間違いないが、人員削減はただの首切り行為に終わり、特殊な技能や高度のビジネス知識を持つ人材が流出してしまったのだ。解雇された人の中にはコンサルタント会社を作り、そのスキルをいままでより高いコストでコークに提供していたケースもあった。
普通であれば最初の一〇〇日ではっきりとした戦略を打ち出すところだが、イズデルは重要な役職については社内で多くの手を打ったものの、この期間にはメディアやアナリストとは話さないと明言していた。引退生活のなかで状況の展開を見守りながら考えた先入観に頼って対外的に考えを打ち出すのではなく、世界を旅して現場を訪れ、社員や顧客やコークに関わる重要な人々と会って、より多くを学びたかったからだ。
すぐに社長を置かないことはすでに決めていた。当時、社内に社長職を任せられる人材がいるとは思えず、それはコカ・コーラの後継者育成がいかにお粗末だったかを示していた。企業を経営する潜在能力がない人材を副司令官として置いても仕方がない。前会長のダフトは在職中に副会長と二人の社長を置いていたが、それでも取締役会は引退していたイズデルを担ぎ出すことになったのだ。
前経営陣の考え方と根本的に違いがある点はまだある。コカ・コーラ本社とボトラーの関係についてだ。
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