「粗にして野だが卑ではない」

石田禮助の生涯
未読
「粗にして野だが卑ではない」
「粗にして野だが卑ではない」
石田禮助の生涯
未読
「粗にして野だが卑ではない」
出版社
文藝春秋
出版日
1992年06月10日
評点
総合
3.5
明瞭性
3.5
革新性
3.5
応用性
3.5
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おすすめポイント

気骨ある日本人の生き様を最近見ているだろうか。戦後年月が経ち、以前の日本人に見られた気骨ある美しい生き方を目にすることは少ない。それは日本人の価値観が変わったからだろうか。いや、社会構造の変化が減った中で、そのような人物の存在が減り、そしてその影響を受ける人も減り、さらにそういう人物が減る、という連鎖的なものだろう。いずれにせよ、気骨のある人物とはいかなるものか、本書は読者に背筋が伸びる思いを抱かせる。

人物を印象付けるものとは何だろうか。親族との関係、交友関係等、少なくともその周辺にはその人物が現れる。しかし強い印象を与えるのはその人物の強烈なポリシーではないだろうか。そのポリシーが、個人の利害ではなく、広く社会に向いていればなおさらである。

「粗にして野だが卑ではない」「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」等、その発言には自分の生き方が現れており、それは国会議員が相手であろうが誰であろうが全く変わらない。そのような石田禮助氏は、老いを理由として何かをしないことはない。常に現役の意識を持ち続けた。本書には成功の先に何を求めるのか、人生の目標とは何かを考える一助になろう。それは石田禮助氏の場合、「パブリック・サービス」であったのであろうし、それが「パスポート・フォア・ヘブン」になるものだと信じていたのである。

ライター画像
大賀康史

著者

城山 三郎
昭和二年(一九二七)年、愛知県に生れる。海軍特別幹部練習生で終戦を迎え二一年、東京商科大学(現・一橋大)入学。卒業後愛知学芸大学(現・愛知教育大)で景気論を講ずるかたわら書いた「輸出」で三二年、第四回文學界新人賞を受賞。三四年、「総会屋錦城」で第四〇回直木賞を受賞した。平成八(一九九六)年、第四四回菊池寛賞受賞。他に「大義の末」「小説日本銀行」「落日燃ゆ」「『粗にして野だが卑ではない』-石田禮助の生涯」「湘南-海光る窓」「この日、この空、この私-無所属の時間で生きる」「指揮官たちの特攻-幸福は花びらのごとく」など多数の作品がある。平成一九年三月二二日死去。没後、随筆集「嬉しうて、そして・・・」、「そうか、もう君はいないのか」などが刊行された。

本書の要点

  • 要点
    1
    「粗にして野だが卑ではないつもり」とは、石田禮助の生き様そのものである。何に対してであろうと、誰が相手であろうと、全力で立ち向かい、そして威圧感があるほどの堂々とした姿勢で臨むのである。
  • 要点
    2
    石田禮助の大きな成果の裏には、時流に流されることなく、自分の頭で先を読み、そしてその先の商売のため着実に準備をした上で適切なタイミングで一気呵成に攻めるという原則がある。
  • 要点
    3
    強い信念に裏打ちされた行動に対しては、一時的に批判されることがあっても、しだいに応援と称賛に移り行くものである。

要約

【必読ポイント!】 若き兵士の如く

Ingram Publishing/Thinkstock
粗にして野だが卑ではないつもり

第五代国鉄総裁石田禮助の葬儀は、故人の遺志通りの極めて簡素なものであった。三井物産に35年在職し、代表取締役までつとめたが、三井物産を代表しての会葬者はわずか三人、その後総裁職を務めた国鉄からも十人以内。それも故人の強い意向のためである。

死後、政府から勲一等叙勲の申し出があったが、これも未亡人つゆが頑として受けなかった。それは生前に石田禮助が一度辞退していたためである。その際に、副総裁に吐き捨てるように言った言葉は、「おれはマンキーだよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ、キミ」それには反論の余地がなかった。

国鉄総裁になり、はじめて国会へ呼ばれたとき、石田は代議士たちを前に自己紹介した。「粗にして野だが卑ではないつもり」前段は石田の自己認識。「マンキー」すなわち「粗にして野」である。そして後段は石田の心意気を示す言葉であった。石田は長い生涯をほぼその言葉通りに生きた

国鉄総裁就任 ~パスポート・フォア・ヘブン~

総理大臣池田勇人は、国鉄総裁への財界人起用に執念を燃やしていた。しかし、政府の指揮監督、国会の監督の下、手枷足枷をはめられての仕事であるため、多くの財界人の反応は冷ややかだった。松下幸之助も、王子製紙の中島慶次も言下に断った。ところが石田は喜んで話に応じた。

数え78歳で総裁職を引き受けた後、石田は神妙に語っている。「私の信念は何をするにも神がついていなければならぬということだ。それには正義の精神が必要だと思う。こんどもきっと神様がついてくれる。そういう信念で欲得なくサービス・アンド・サクリファイスでやるつもりだ」と。そして、商売に徹して生きた後は、「パブリック・サービス」、世の中のために尽くし、はじめて天国へ行ける。

国会運輸委員会 ~諸君たちにも責任がある~
Photodisc/Thinkstock

国鉄総裁就任の挨拶にはじめて国会へ出た石田は、背をまっすぐ伸ばし、代議士たちを見下ろすようにして、「諸君」と話しかけた。「先生方」ではない。質問する代議士にも、「先生」とは言わず、「××君」という。同席していた副総裁の磯崎は言う、「代議士たちの顔色がみるみる変わった。なんだ、この爺さんは」と。

いずれにせよ、この初登院のときの石田の挨拶は堂々たるものであった。「嘘は絶対つきませんが、知らぬことは知らぬと言うから、どうか御勘弁を」、「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。ていねいな言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキーが裃を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお許しねがいたい。」

さらに石田は正確だが痛烈な文句を口にした。「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」、思いもかけぬ挨拶で無礼の連発である。代議士たちが怒り、あきれたのも無理はない。この爺さん、いったい何者なのか。

石田禮助の威厳 ~ストロンゲスト・マン~

シアトル支店長として頭角を現す

石田禮助が三井物産で頭角を現すのは、大正五年、数え31歳でシアトルの支店長に起用されてからである。シアトル出張所はサンフランシスコ支店の管轄下に開かれたもので、小麦や木材などを買付けて日本へ送るのが、主な仕事だった。着任した石田は、そうした中から、三年半ほどの間にめざましく業績を上げ、社員数にして十倍近い規模に伸ばした。

石田はまず船で成功する。当時、第一次世界大戦の影響で、太平洋では船荷の動きが減り、シアトル港も閑散としていた。

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要約公開日 2013.12.03
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