第五代国鉄総裁石田禮助の葬儀は、故人の遺志通りの極めて簡素なものであった。三井物産に35年在職し、代表取締役までつとめたが、三井物産を代表しての会葬者はわずか三人、その後総裁職を務めた国鉄からも十人以内。それも故人の強い意向のためである。
死後、政府から勲一等叙勲の申し出があったが、これも未亡人つゆが頑として受けなかった。それは生前に石田禮助が一度辞退していたためである。その際に、副総裁に吐き捨てるように言った言葉は、「おれはマンキーだよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ、キミ」それには反論の余地がなかった。
国鉄総裁になり、はじめて国会へ呼ばれたとき、石田は代議士たちを前に自己紹介した。「粗にして野だが卑ではないつもり」前段は石田の自己認識。「マンキー」すなわち「粗にして野」である。そして後段は石田の心意気を示す言葉であった。石田は長い生涯をほぼその言葉通りに生きた
総理大臣池田勇人は、国鉄総裁への財界人起用に執念を燃やしていた。しかし、政府の指揮監督、国会の監督の下、手枷足枷をはめられての仕事であるため、多くの財界人の反応は冷ややかだった。松下幸之助も、王子製紙の中島慶次も言下に断った。ところが石田は喜んで話に応じた。
数え78歳で総裁職を引き受けた後、石田は神妙に語っている。「私の信念は何をするにも神がついていなければならぬということだ。それには正義の精神が必要だと思う。こんどもきっと神様がついてくれる。そういう信念で欲得なくサービス・アンド・サクリファイスでやるつもりだ」と。そして、商売に徹して生きた後は、「パブリック・サービス」、世の中のために尽くし、はじめて天国へ行ける。
国鉄総裁就任の挨拶にはじめて国会へ出た石田は、背をまっすぐ伸ばし、代議士たちを見下ろすようにして、「諸君」と話しかけた。「先生方」ではない。質問する代議士にも、「先生」とは言わず、「××君」という。同席していた副総裁の磯崎は言う、「代議士たちの顔色がみるみる変わった。なんだ、この爺さんは」と。
いずれにせよ、この初登院のときの石田の挨拶は堂々たるものであった。「嘘は絶対つきませんが、知らぬことは知らぬと言うから、どうか御勘弁を」、「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。ていねいな言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキーが裃を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお許しねがいたい。」
さらに石田は正確だが痛烈な文句を口にした。「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」、思いもかけぬ挨拶で無礼の連発である。代議士たちが怒り、あきれたのも無理はない。この爺さん、いったい何者なのか。
石田禮助が三井物産で頭角を現すのは、大正五年、数え31歳でシアトルの支店長に起用されてからである。シアトル出張所はサンフランシスコ支店の管轄下に開かれたもので、小麦や木材などを買付けて日本へ送るのが、主な仕事だった。着任した石田は、そうした中から、三年半ほどの間にめざましく業績を上げ、社員数にして十倍近い規模に伸ばした。
石田はまず船で成功する。当時、第一次世界大戦の影響で、太平洋では船荷の動きが減り、シアトル港も閑散としていた。
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