それまで職を転々としてきた著者がヤッホーブルーイングに入社したのは、当時ヤッホーブルーイングの社長を務めていた星野佳路という男に出会ったのがきっかけだった。星野の「日本にもアメリカにあるような個性あふれるビールを紹介したい」という言葉を聞き、実際の醸造所を見た時、直感的に「ここだ」と悟ったという。
星野はクラフトビールを造るにあたり、外国からブルワー(醸造責任者)を招聘するのではなく、日本人のブルワーを育てていこうというこだわりを持っていた。そのため、醸造スタッフにアメリカ留学の資金と時間を与え、発酵に関してだけでなく、麦芽やホップの種類、ビールの歴史についても学ばせた。
そんな醸造スタッフが造ったビールに、著者は激しく魅了された。特に気に入ったのはその「香り」である。試験醸造されたビールを飲んだ瞬間、「こんなに華やかな香りがしてコクがあるビールはいままで日本になかった! この感動的な味のビールをこれから日本に広めるんだ!」と考えた。
また、「よなよなエール」を造るにあたっては、ビールの品質以外の部分にも様々な工夫がなされた。たとえばネーミングについて、もともとはナンバーワンになりたいという思いから、「エールナンバーワン」という名前がつけられていたが、それではありがちすぎて何も心に残らないという判断から、何十回の会議の果てに、「よなよなエール」という名前が与えられた。味わいある個性豊かなエールビールを、「夜な夜な」飲んでもらうことを夢見てのネーミングだった。缶のデザインについても、当時ビール業界ではタブーとされていた黒を積極的に用いて、それまでの慣例を打ち崩した。
ネーミング、味、デザインすべてにおいて、常識の逆をいった「よなよなエール」は、順調すぎるほどの滑り出しを見せた。「製品が足りません」とお詫びすることもしょっちゅうだった。当時、地ビールブームが巻き起こっており、「よなよなエール」もそれにうまく乗ることができたのだ。
しかし、その行き先は、もともと目指していたゴールとはかけ離れていた。著者たちの使命は町おこしではなく、アメリカのように個性的でおいしいクラフトビールを広めていくことである。だから観光需要の開拓よりも、リピーターの獲得を主眼に戦略を立てていたのだが、うまく固定顧客を掴むことができなかった。結局、「よなよなエール」も地ビールブームの中に回収されてしまい、ブームが去った2000年頃になると、まったく売れなくなっていった。
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