著者はNECに3年余り在籍した後、ジャーナリストになるという夢を叶えるため、朝日新聞社に入社した。そして約13年務めた後に独立した。ちょうど40歳の時だった。
大新聞社において、40歳頃はちょうどキャリアの曲がり角に当たる。現場の記者が書いた記事の修正や、追加取材の指示が主な業務になってくる頃であり、その後は営業や管理部門で管理職になる人も多い。自分で取材を担当することはほとんどなくなる。
著者が退職を考えたのは、社内での過剰な出世競争に嫌気が差したからだ。著者の所属していた経済部は、政治部と交代で社長を送り出す部署だったため、そこで頂点に上り詰めれば役員以上になることが保証されていた。実際、読者のために記事を書くというよりも、自分の出世を考えて記事を書く風潮があったという。
また、記者クラブの存在により、自分で勉強するよりも、権力に媚びて情報をもらうことのほうが重要視される環境にも問題意識を抱いていた。世の中が大きく変わっていく中、勉強しない新聞記者はやがて世間から取り残されると考えた著者は、社内でも勉強会をするべきだと提言したところ、先輩記者からは「君は頭が悪いから勉強したいのか」と嘲笑されてしまった。実際に勉強会を企画しても、集まったのはわずか数名だった。
さらに、社会人大学院での学びも、著者の独立を後押しすることになった。東京から大阪への人事異動を受けた著者は、時間に余裕ができたため、夜学の社会人大学院で財務からマーケティング、人材育成について学んだ。そこに集まった社会人たちは皆、現状に危機感を持ち、これからのために学び直そうという気概を持った人々であり、著者も多いに触発された。
朝日新聞社を辞めたとき、著者の年収は約1300万円だった。給料の大半は取材先との付き合いや浪費に消えていたため、貯金もほとんどなかった、まさに背水の陣だったが、それまで培ってきた人脈に助けられながら、10年以上フリージャーナリストとして活躍し続けている。組織に守られていないというリスクはあるものの、自分の問題意識にもとづいて行動できる自由さを享受できるのは、フリーランスの大きな利点だ。
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