音楽がタダになった大きな要因の1つが、mp3の登場だ。もともと音楽CDは、1秒のステレオサウンドの保存に140万ビット以上も使っていた。そこで、当時大学院生だったカールハインツ・ブランデンブルクは、人間の耳で実際に聞き取れるだけのビット数だけを確保することで、できるかぎり音質を保ちながらファイルを圧縮するという研究を行い、特許を取得した。業績を認められたブランデンブルクは、公的研究機関から、最先端のスーパーコンピュータやハイエンドの音響機器、著作権の専門家、そしてすぐれたエンジニア人材を与えられた。
1990年のはじめになると、ほぼ完成品といえるものができあがった。勢いに乗るブランデンブルクたちは、MPEG(動画専門家グループ)の主催するコンテストへの参加を決めた。このコンテストは、これからの時代の標準規格を設定することを目的にしたもので、14のグループが参加していた。結果、ブランデンブルクたちのグループが首位になったのだが、MUSICAMというグループもほぼ同点につけていた。そのため数カ月後、MPEGは複数の規格を承認するという方針を固め、ブランデンブルクたちもそれに従った。そしてMUSICAMの方式はmp2、ブランデンブルクの方式はmp3と呼ばれるようになった。
mp3のほうがmp2よりも技術的にすぐれていたが、mp2は知名度が高く、フィリップスという資金力豊富な企業からの支援があった。mp2が、デジタルFMラジオ、インタラクティブCD―ROM、DVDの前身であるビデオCD、デジタルオーディオテープ、無線HDTV放送のサウンドトラックの規格として選ばれた一方で、mp3はどこからも選ばれなかった。
mp3への主な批判は、音質のわりに処理能力がかかりすぎるというものだった。ただ、これは当初の規約に、MUSICAMの定めたルールに従うことが盛り込まれていたのが原因だった。フィリップスは、非効率な方式を押しつけることで、mp3を蹴落とそうと画策したのである。さらに、mp3へのネガティブキャンペーンも積極的に展開された。
それでも、ブランデンブルクのチームは懸命に状況を改善しようと試みた。この献身が実を結び、1994年までに、mp3は圧縮スピードでmp2にほんの少し劣るものの、mp2よりはるかに音質がすぐれた規格となった。だが、それでもmp3はmp2に負けつづけた。
最初にmp3の価値を見出したのは、テロス・システムズというスタートアップ企業だった。mp2とmp3を聴き比べ、mp3のほうが断然良いと判断したテロスは、mp3をナショナル・ホッケー・リーグ(NHL)にライセンスし、その後も北米のあらゆるスポーツリーグに売り込んでいった。それでも、ブランデンブルクたちの取り分はわずかだった。
ブランデンブルクたちは、家庭用のユーザーにmp3を売り込むため、パソコン向けのmp3ファイルの圧縮と再生アプリケーション「L3enc」を開発した。これにより、一般消費者は、自分でmp3ファイルを作り、家庭用パソコンで再生することができるようになった。L3encの登場は、これからの音楽の新しい流通方式を示唆していた。
音楽がタダになった第2の要因は、インターネット上で発売前のアルバムをリークする秘密組織の存在だ。そのうちの1人が、ほとんどすべての話題のアルバムの流出源になっていた。それが、アメリカ南部のCD製造工場に勤務していたベニー・ライデル・グローバーである。
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