パナソニックの凋落を招いた人事抗争の原点は、経営の神様、松下幸之助の遺言にある。幸之助は、女婿で、会長の座にあった松下正治を「できるだけ早く経営陣から引退させよ」と、3代目社長の山下俊彦に命じていた。幸之助は、正治では経営の舵取りは難しいと能力を見限っていたのだ。さすがの慧眼である。
しかし、幸之助は創業当時のカネの工面で嫁のむめのに恩義があったゆえ、家庭での発言権は強くなく、自分の手で義理の息子に引導を渡せなかった。むめのは孫の正幸に社長を継がせるためにも、正治の社長続投を望んでいたからだ。やっとのこと、昭和52年に幸之助が正治を会長とし、山下を後継社長に抜てきしたことは、創業家の番頭経営から、近代的経営へと移行する転換点となった。
山下は、一度退社した経験を持ちながらも再入社し、末席の取締役から22人抜きで経営トップに躍り出たという異色の経歴を持つ。山下が松下電子工業の工場長をしていたとき、物理に精通した部下の才能を引き出したマネジメント能力が、当時の副社長の目に留まったのが発端だ。その後も、数々の実績が認められ、順調に出世の階段を上っていく。
山下を社長に推したのは正治だった。その裏には、組織の若返りを図るだけでなく、自身の権力基盤を強化しようという魂胆があったようだ。
山下は古参の役員たちを次々に切り、ドラスティックな人事改革を進めていった。ところが、これには社内外から批判が相次ぎ、幸之助も怒りを露わにしたほどだった。山下を後方支援してきた正治ですら、正治は重要事項を協議する常務会に出席しなくてもいいと言い切る山下を不安視し始めた。これが後々のしこりにつながったと推測できる。
経営体質の強化と海外事業の拡大に取り組んでいた山下は、その計画をともに推進してきた谷井昭雄に社長の座を引き継いだ。山下は結局、正治に弓を引くことができず、引退勧告を後任の谷井への引き継ぎ事項とした。そこで、谷井は正治の長男である正幸を社長に就かせないための布石として、副会長というポストを新設し、さらにはアメリカ松下電器の会長職から正治を降板させた。
こうした強引な人事に引き続き、谷井はついに正治に引退勧告を行い、激しい反発を受けることとなる。正治は、経営近代化を進めてきた自負があったにもかかわらず、自身がその弊害かのように扱われることが心外だったのだ。これ以降、正治は谷井が決めた人事案に何かと難色を示すようになり、「正治がイエスと言わないと、取締役は誰も上に上がれない」という空気が蔓延したという。こうして正治の逆襲が始まり、谷井はじわじわと追いつめられていくこととなった。
会長と社長の対立は、山下、谷井が準備してきた画期的なビジネスモデルの粉砕にもつながっていった。平成2年、松下電器は、アメリカの総合メディア企業MCAを買収し、傘下のユニバーサル映画の持つ膨大な映像ライブラリーを活用しようとしていた。当時の松下電器は、映像や音楽を視聴者に直接配信するオン・デマンドという概念が席巻することを見越して、MCAの映像や音楽ソフトとDVDを組み合わせ、「ソフトとハードの融合」という、飛躍の青写真を描いていた。
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