変化の激しい時代において、人生の座標軸を与えてくれるのが教養である。教養は、物事の本質を見抜き、時代を先取りする大局観を養ううえでも欠かせない。「教養人」は、単なる知識量ではなく、それに伴う人間性の高さが前提となっている。
教養人かどうかの基準として、読書をしているかどうかが挙げられる。読書家で知られた東京電力社長・会長だった平岩外四氏は、本の存在を「自分の知識や経験の限界をとり払ってくれるもの」と位置付けていた。また、資生堂の名誉会長である福原義春氏は、哲学や文学、芸術、文化に造詣が深く、本について語り合う「書友」を持つことを薦めている。
教養は英語で「culture(粗野な状態から耕された)」という意味を持つ。この言葉には、教育などを施して人為的、人工的に仕上げていくという、学びの大切さが込められている。
最近、リベラルアーツという言葉が広まっている。リベラルアーツの起源は古代ギリシャにまでさかのぼる。修辞学・論理学・文法学という、言葉にかかわる三学と、数学・幾何学・天文学・音楽の四科から成る、実に幅広い内容であった。そしてリベラルアーツは「人を自由にする学問」という意味を持ち、自由人と奴隷とを選別する道具として機能していたのだ。
教養とは、人がよりよく生きるためのもの、「いかに生きるか」を問うものといえる。一橋大学元学長の阿部謹也氏によると、教養とは「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のために何ができるかを知っている状態、あるいは知ろうと努力している状態」であるという。よって、教養は社会的地位の高さにかかわらず、その人の役割に応じて存在する。例えば、農民にとっての教養とは、農業の重要性を理解したうえで、米をどう育てるかといった、仕事に対する努力を続けることを指す。こうした自分の役割認識に加えて、他の専門知識をうまく取り入れながら、他者と協働していくことがますます重要になる。
阿部氏は、教養には大きく分けて「書物や言葉による教養」と「立ち居振る舞いによる教養」があるという。欧州ではエリートとしての教養は前者の位置づけであり、教養は世間から隔絶された大学で純粋培養されると考えていた。これが理性中心の「合理主義」の誕生につながる。つまり、思索に没頭できる自由な時間と、世間との距離感が、教養を深めるために肝要だと考えられていた。
一方、阿部氏は「書物や言葉による教養」よりも「立ち居振る舞いによる教養」を重視した。そして、後者の教養は「世間」で磨かれるという。日本では昔から、儀式での振る舞いや話し方など、その場に応じた非言語によるコミュニケーション能力が重要視されてきた。そして、教養は、ありのままの生き方や人間性を見せることでもあり、世間や人生の中で磨かれていくとされた。ただし、グローバル化した社会を生きる私たちは、ビジネスシーンでは、その人の立場、肩書、力関係などに応じた振る舞い方が規定されている。つまり、より広い社会においては、ルールの共有が求められ、普遍的な価値観の合意や共通のスタンダードの構築などが求められる。
これからは、真の教養人の条件は、共通性を求められる「社会」における教養と、固有性や個別性が重視され、「世間」で磨かれていく教養の両方を持つことなのである。
正義や幸福の定義があいまいな現在こそ、長い歴史の中でしっかりと培われた人類の英知である哲学が威力を発揮する。哲学の目的は、「もののありかた」や「ものの定義」といった根本や本質に迫ることである。つまり、
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