世界でも名高い歓楽街である新宿の歌舞伎町で活躍し、「歌舞伎町案内人」として有名になった李 小牧(リー・シャム)は、留学生として来日したのち、歌舞伎町で客に案内を始めた。これが彼の生涯のライフワークになり、そこから多くの付加価値が生まれた。2002年に『歌舞伎町案内人』を刊行しベストセラーとなってからは、日本のみならず香港、中国のテレビや雑誌に登場し、歌舞伎町関連のドラマ、映画や舞台にも出演、大学で講演も行い、世界に名をとどろかせた。
彼は日本の暴力団、中国マフィア、警察とも誠心誠意つきあうことをモットーにしており、中国人絡みの事件があれば彼の協力で解決につながることも多い。来日当初は涙を流したこともあったが、不屈の精神で歌舞伎町の奥深くまで分け入り、現在では富と栄誉を手にしている。
李は語る。「歌舞伎町はとても人間的なところ」「ただの歓楽街とは言いがたく、きわめて多元的なエリアで、ギャンブル、風俗、レストラン、劇場、ラブホテルとなんでもある。まさに不夜城の歓楽街だ。こうした夜のライフスタイルを作るのは日本人の得意とするところだ。中国人はそれをしっかり学ぶべきだ。」
電子工場の研修生になれると騙されて来日した応 暁雍(イン・シャオヨン)は、紆余曲折を経て、今では日本で認可保育園を4箇所も経営する実業家となった。
一度はホステスの仕事に就かされた応だったが、何とかその環境から脱出し、日本人男性と結婚して男の子を出産した。しかし、日本語もまんぞくに話せず、手助けをしてくれる肉親も友達も近くにいなかった。夫とも不仲になり、どんどん追い詰められ、やがてうつ病になった。
だが、息子と無理心中を決意し死ぬ直前、日本で発刊されている中国語新聞に、「子育ての悩みがあるなら電話をください」とメッセージを掲載したことが転機となった。自分と同じか、それ以上の悩みを抱えている人が多くいることを知った応は、それまでの自分は「足ると知る」ことがまったくわかっていなかったと反省。そして中国人ママのために自宅で子どもを無料で預かるミニ託児所を始めた。
託児所は当初、子ども5人からのスタートだったが、24時間対応で保育費も安く、中国語・日本語の両方が学べるということで、半年で20人以上が集まる人気保育園となった。応の精神状態も回復していった。
現在は、日本と中国のいいところを取り入れた教育が話題を呼び、国内4カ所で運営、子どもは250人以上、先生は48人在籍している。24時間いつでも出入り可能な保育園は日本ではほとんどないため、日本人ママでも子どもを公立保育園と同時にこの保育園の会員になるケースもあるそうだ。
応は日本の保育園について、幼少期から人に接するときの態度やマナー、自分でできることは自分でやること、相手の気持ちを理解することを学べる場所だと賞賛している。応の保育園にも、日本の保育園のいいところを取り入れているのだという。
日本の大学に進学するという丁 尚彪(ティン・シャンビャオ)の夢は、来日早々に砕け散った。彼が入学申請した日本人学校は、北海道の中でも人里離れた町で、人口激減と経済悪化により、日本人ですら職に就くのが難しいところだった。
来日するために借金をつくっており、すぐにでも働かなければならなかった丁にとっては、東京に逃げ出すしか手段がなかった。しかし、東京の日本語学校への転出申請が許可されず、不法滞在者となってしまう。
丁は自分が進学する夢を諦め、上海にいる娘を外国の一流大学に入れることだけを夢見て、必死に飲食店でアルバイトをして上海に送金しつづけた。その後8年が過ぎ、
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