著者は限られた日数のなかで、できるだけ東日本大震災の被災地に足を向けている。そのなかのひとつに気仙沼大島がある。島を本土から切りはなす大島瀬戸は清澄かつ激しい潮流で知られ、数多くの魚介類を育んでいる。貝類養殖業は、大島の成長産業だ。
だが、2010年2月28日、チリ大地震津波が大島の全養殖いかだを奪いさってしまった。さらに、1年かけて懸命な復旧作業をおこない、ようやく新しいいかだに種づけを始めようとしたのもつかの間、今度は東日本大震災に見舞われてしまう。いかだはもちろん、船や陸の作業施設、さらには自宅まで失った業者も数多くいた。
とはいえ、海の回復は驚くほど速い。再建された養殖いかだの貝類は、例年の2倍ほどの速度で成長している。その一方で、陸の復興は遅れをとっている。このままでは業者の努力が水泡に帰してしまいかねない。
壁となっているのは「国」である。大島の未来を担う若いリーダーたちは、大島瀬戸をブランド化し、「顔の見える」顧客網を地道に開拓してきた。そこには、「よそ物と交ぜ二束三文で売ってしまう漁協に頼ったら、後継者が育たん」という危機感があった。しかし、基金として運営される「国」の養殖復興支援事業は、漁業協同組合を介して復興経費を支払い、漁協系統への出荷を義務づけて、水揚げ筋を基金への返還にあてる仕組みになっている。つまり、「大島瀬戸ブランド」を捨てなければ使えない支援になってしまっているのだ。
また、「国」は復興支援事業を通して、より収益性の高い生産体制の実現をめざすことを理念に掲げているが、支援の対象となる業者をグループ化する施行手段には問題があると言わざるをえない。「国」の補助は、漁協が一括手配した設備に限られており、支援物資や中古品を含む設備にかけた自前の経費は対象外だった。陳情を受けた宮城県庁が水産庁に再検討を依頼し、やっと変更されたものの、このように地域成長産業の復興を左右する規則が、現場からはほど遠い行政の裁量ひとつで決まってしまっているのが現状である。
著者は東日本大震災の被災地を訪れる際、岩手県大槌町への訪問を欠かさない。それは、大槌に人の心をひきつけるオーラがあるからだ。大槌は、人的にも物的にも、被災地自治体で最悪かそれに近い被害を受けた町である。ほとんどの公共施設と経済基盤がガレキの山と化し、約4分の1の役場職員が津波の犠牲となった。さらに、あらゆるデータが流されてしまい、行政機関が約半年麻痺し、復興作業の開始が大幅に遅れ、「周回遅れのトップランナー」とすら呼ばれた。
だが、町としての機能の大半を失ったのは明らかなのに、大槌には生き生きとした地域社会があった。その秘密は、震災の5カ月後に町長へ就任した碇川豊氏の方針にある。緊急事態時に指揮をとるリーダーはふつう、トップダウンで命令するのが常だ。しかし碇川氏は、町民こそ復興のエンジンであるべきだと考え、町民たちが自ら動く「ボトムアップ戦略」を打ちだした。そして、高校生をふくめ、老若男女が自主的に参加し、町全体と各地区の未来を描き、議論に議論を重ねて復興計画を練りあげた。その結果、あっという間に他の被災地自治体に追いついた。その間、行政はあくまで事務方に徹していた。
著者の世界銀行での経験からも言えることだが、融資や予算がつくモノよりも、援助を受ける人々がどのような価値観を共有しているかのほうが、迅速な施行と高い成果に影響をあたえる。「名も無き人の声を聴くことこそ政治」と言いきる碇川町長や、稀有なリーダーに支えられながら「みんなでがんばっぺし」と力を合わせる大槌の民は、わが国が世界に誇れる町づくりを体現している。
日本の田舎には、異邦人をとりこにする魅力がある。何もない田舎にはるばる外国から客が来るなど夢物語だと言う人もいるが、実のところ田舎は非常に有望な「輸出産業」だ。欧米のバカンスの過ごしかたにはいろいろあるが、日本との主な違いは、休養を重視する人が多いことである。彼らは、静寂な自然環境や歴史に培われた郷土文化に身を置き、最低1週間単位でバカンスをとる。良い宿があればしばらく逗留し、なければないで家を借り、地域社会に浸って人の絆に癒される。また、彼らは気に入った場所を見つけると常連となってくれる顧客層でもある。著者の英国人の夫もその典型的な例だ。
そんな夫が、突然「マゼに行こう」と言い出した。英国紙ガーディアンの旅行欄「東京シティーガイド」が、飛騨高地の山里馬瀬(まぜ)を紹介していたからだ。
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