「出版、映画、新聞、音楽などあらゆるメディアでマスコミ界の三冠王、四冠王になりたいんだ」と目標を掲げていた徳間康快は、「文化の仕掛け人」として文化の井戸を掘り続けた。それも必ず水が出ると信じて掘ったのではなく、徒労に終わっても掘り続けなければ水は出ないと覚悟して、さまざまな井戸を掘っていたのである。
徳間書店を創業したり、雑誌『アサヒ芸能』の編集長を務めたり、新聞『東京タイムズ』の社長に就任したり、映画スタジオジブリの初代社長にも就任した。「心配するな。カネは銀行にいくらでもある」「借金取りは墓場までは来ない」と豪語した彼は、「これだ!」と思ったことには投資を惜しまなかった。それには金儲けではなく、収支はトントンになればいいという哲学があったからだろう。そんな徳間は、ある種の駆け込み寺的存在だった。「徳間なら相談に乗ってくれるのではないか、何かしてくれるのではないか」と、さまざまな企画が持ち込まれたのである。
「オレはだまされた」この言葉を最期に、徳間は2000年9月20日、肝不全のため享年78歳で亡くなった。亡くなったとき、渋谷区松濤にあった自宅には、読売新聞社長を務めた渡邉恒雄や西武鉄道グループのオーナーである堤義明、俳優の高倉健など、そうそうたる面々が集まっていた。他にも書籍『徳間康快追悼集』には、宮崎駿や日本テレビ会長の氏家齋一郎、東映会長の岡田茂、日本書籍出版協会名誉会長の服部敏幸などの弔辞が掲載されている。徳間は、いったい誰にだまされたというのだ?
1921年に生まれた徳間は、逗子開成中学校から早稲田大学商学部に進学した。裕福な家庭ではなく、家計も苦しかったため、「横須賀日日」という地元の新聞でアルバイト記者をしていたという。その後1943年に読売新聞に入社。渡邉恒雄は後輩にあたる。しかし戦後の争議に巻き込まれてしまい、入社からたった数年で、徳間は読売新聞社を退社せざるをえなくなった。
その後、復社できることになっても、徳間は読売新聞には戻らなかった。「いまさら何だという感じもあったし、決心して新しい道を進みはじめた以上、そんなことで気持を変えるもんか、と自分に言い聞かせたんだよ」と徳間は語っている。そのため徳間にとってかつて在籍していた読売新聞は、愛憎ともに強い対象であったのだ。
読売新聞社を退社後、失意のどん底にいた徳間を救ってくれたのは『民報』を創刊した国際ジャーナリストの松本重治だった。彼に見込まれて、27歳で『東京民報』の社会部長になったが、その新聞が左翼的だということでGHQに潰されてしまった。その後、また運よく徳間を救ってくれる人が現れた。学生時代からの友人のである、中野正剛の息子の中野達彦が社長を務める真善美社という出版社に、1948年専務として入社した。
しかし同年に同社は倒産し、再び徳間は無一文となる。
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