学校信仰というものがある。新しいことを始めたいのであれば、学校へ行くのが一番だとする考え方のことだ。学校信仰をもっている人たちは、学ぶにはまず教えてくれる人が必要だと考えている。だからこそ、教える人と本を用意して待ってくれている学校へ行くのが当然だというわけである。
だが、学校での学びは、あくまで先生と教科書にひっぱられたものでしかない。それはまるでグライダーのような学び方だ。学校では、どこまでもついていく従順さが尊重され、逆に自力で動く飛行機のような学び方は敬遠されてしまう。
もちろん、グライダー能力自体がダメなわけではない。そもそも人間には、グライダー能力と飛行機能力の両方が備わっている。グライダー能力がまったくなければ、基本的な知識の習得すらおぼつかないだろう。何も知らないまま一人で飛ぼうとすれば、待っているのは悲惨な結末である。
だが、現実にはグライダー能力ばかり成長していて、飛行機能力に欠けている人があまりに多い。さらに悪いことに、そういう人も「翔べる」という評価を社会で受けてしまっている。そのような環境が、新しい文化の創造を阻んでいるのだ。
学校がグライダー訓練所のようになってしまうのも、考えてみれば当然である。とにかく言われるまま勉強するよう教えこむからだ。そのような環境では、各人の自発的な学習意欲は期待できない。
ここで参考になるのが、昔の塾や道場のしきたりである。かつての教育機関では、入門してもすぐに教えるようなことはしなかった。むしろ、教えるのを拒んでいたほどである。
すると当然、弟子は不満をいだき、なんとしてでも師匠の知識や技術を盗みとろうとする。すると次第に、新しい知識や情報を自ら取得する力が養われていくというわけだ。
いまの学校は、教える側が積極的すぎるし親切すぎる。それでは学ぶ側の依存心を助長するだけで、好奇心をないがしろにしてしまうだけである。
通常、問題から答えが導かれるまでには時間がかかるものだ。その間、ずっと考え続けているのはかえって悪影響を及ぼしかねない。一晩寝てから考えるぐらいがちょうどよい。
むしろ、一晩では短すぎる場合もある。
3,400冊以上の要約が楽しめる