インターネットによってジャーナリズムのあり方は大きく変化した。パソコンがあれば、新聞やテレビと同じ規模のユーザーに向けて情報配信をすることが可能になり、輪転機やスタジオのような大がかりな設備を必要としなくなった。
そして、情報の流れは紙や電波による「一方通行」から、SNSによる「双方向」に変化した。記事がネットに配信されればSNSによって拡散され、ユーザーが内容についてレスポンスをする。もはやユーザーは単なる「受け手」ではなく、コンテンツの作成や流通、すなわち情報配信の一端を担っている。
その一方で、集めた情報の取捨選択や真偽の判断など、ジャーナリズムにおけるプロとしての責任やスキル、倫理観が、受け手にも求められる時代になった。2016年は、英国でのEU離脱の是非を問う国民投票や米大統領選といった重大な局面で、「フェイクニュース」と呼ばれるデマ記事が猛威をふるった。今後は、報道する側だけに限らず、受け手である市民も自覚をもって情報リテラシーの向上に努めていかなくてはならない。
ジャーナリズムと世論の間には、ジャーナリズムが「世論を広める」、「世論を動かす」、「世論に動かされる」という3つの関係が存在する。インターネットは、マスメディアが世論を広めたり動かしたりする力を弱めた。その理由はマスメディアによる情報の独占が崩れたことにある。例えば、役所のプレスリリースは配布だけでなくネットに配信されることが多い。記者と同じタイミングで一般市民が情報を得られるようになり、自前のメディアがあればすぐに情報を広めることができる。
逆に、メディアが世論に動かされる側面は大幅に強まったといえる。市民がSNSを通してメディアに直接働きかけることが容易になり、メディアもSNSでの反応を常に意識するようになった。
こうした変化は、世論のチェックを受けて報道の信頼性が高まっていくという利点をもたらしてくれる。しかし、報道が市民を恐れて大衆迎合的になる危険性があり、この場合は報道するニュースの選択にまで影響が及ぶ。本来、報道する側は批判を浴びたからといって自粛するのではなく、なぜそういう報道が必要なのかを市民に説明しなければならない。一方で、市民には、自分たちの行動がメディアを動かしているという自覚のもとに、良い報道は支持し悪い報道は正していくという態度を醸成することが求められる。
インターネットという空間は、様々な情報の発信者を同じプラットフォームに並べた。これによって記事が同じフォーマットで発信され、発信者の違いがわかりにくくなっている。例えば、ネット上の記事を集めて掲載するキュレーションメディアの場合、新聞社が発信した記事でも、そのメディアが発信者であるかのように誤解されることが多い。特に物心ついたころにはネットが普及していた「デジタルネイティブ」の世代において、この傾向は顕著である。
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