私たちは日々さまざまな取り決めや頼みごと、たいして重要でない煩雑な雑事にばかり心を砕き、イライラしていないだろうか。心から大切だと思えることを後回しにしていないだろうか。私たちは、自らの手で人生を複雑な問題だらけにしているようだ。
たとえばもし、過去に戻って、私たちの祖先に「人間はやがて、物質的に豊かな生活を送るために必要な道具をすべて持てるようになる」と伝えたら、私たちの祖先は、幸福な未来を想像するのではないだろうか。ところが、私たちは、昔の人より良いものを食べ、良い服を着て、良い家に住み、物質的に満たされていながら、自分の境遇に不満がある。何よりも物質的欲求に振りまわされて、将来への不安にとらわれている。いまや世界中で「お金があればあるほど必要なものも増えていく」という現象が起きている。自分が持っているものに対する満足感は、持っていないものへの執着によって驚くほどかき乱されてしまうのだ。
私たちの生活が混乱している原因は、「本質的なものと余計なものが入り混じっている」ことだ。真の人生を手に入れるためには、精神的な強さが必要だ。重要なことは、変化する状況のなかで、人間らしさを失わずに歩き続けることである。
著者は、「人間の内面な簡素さ」という考え方を読者と分かち合いたいと呼びかける。では、簡素であるとはどういうことだろうか。
簡素さというと、飾り気のないシンプルな服装や質素な住まい、平凡さや貧しさなど、外から見える表面的な特徴に現れると思いがちである。しかし、生活スタイルや社会的地位の高さに関係なく、簡素な人もいればそうでない人もいる。贅沢に暮らしていても、生き方は簡素かもしれないし、ぼろをまとっていても、簡素な生き方や節度を嫌って、享楽にふけることが好きかもしれない。
簡素の本質や根源は、私たちの行動の動機となる意志のなかにある。簡素というのは心の状態であり、自分が人間としてあるべき姿であろうとしているとき、その人は簡素だといえる。簡素になるとは、自分の望みや行動を、自分が目指す生き方のための「心の掟」に一致させることだともいえる。
本質的なものと余計なものが混在しているのは、行動だけとは限らない。頭の中で、自分自身についてあれこれ考えをめぐらしすぎることも混沌を生んでしまう。
自己分析は悪いことではないが、用心深くなりすぎて、まるで機械の点検をするように自分の生き方や考え方を絶え間なくチェックしていると、むしろ機械の調子はおかしくなってしまう。
正しく考えるのは難しいことだが、考えて立ち止まっているうちに人生は終わってしまう。思考を遊び道具のように扱ってはいけないのだ。
まず私たちの思考が向かうべきなのは、基本的な自信をつけるということについてである。「自信」をつちかうことで、エネルギーや落ち着いた活動、人生や勤労への愛が産まれてくる。自信が未来へ向けられると「希望」が生まれる。そして、「善良さ」が人間の道を明るく照らしてくれる。自信と希望をもち、善良であることが、実り多く簡素に、人間らしく考えるために必要なことだ。
簡素をめざして生き方を変えようと思うなら、話し言葉や書き言葉にも意識を向けなければならない。精神を表すのが言葉である。
人間関係は相互の信頼がその基礎になければならないが、世の中には、だます人や抜け目のない人、駆け引きのうまい人があまりにたくさんいる。絶えず警戒していなければならない相手に対しては、その言葉や意図を事あるごとにチェックしなければならなくなる。このように、言葉が真理でなくまやかしを伝えるものとして使われると、人生は奇妙に、複雑になってしまう。堕落した言葉を使う人は、打倒すべき存在なのだ。
思わせぶりな言い回しや逃げ口上などではなく、きちんとした言葉を使おう。言いたいことはどんなにうまく表現しても言いすぎることはないが、凝った表現を用いることがうまく語り、うまく書くことではない。言葉とは事実をありのままに伝えるものでなければならない。そしてシンプルであるほど説得力を持つ。大切なことほど簡潔に表現し、率直に語ろう。
単純な義務を果たすこと、言い換えれば、基本的な正義を実践することは大切なことである。
たとえば、社会の裏側の、悲惨な貧困の世界を目の当たりにしたとしよう。このとき、目の前にいるたったひとりの人間を救うことに意味があると感じられず、「こんなことをしていったい何になるのだろう?」と自問し、何もしないことを選択してしまうかもしれない。だからといって、何ひとつ生産的なことをしない人に、憐れみの気持ちや善意がないというわけではない。しかし、目の前の現実に対して何もしないという態度は間違っている。大きな善を行う手段を持っていないことは、小さな善を行わなくてもいい理由にはならないのだ。
小さな善を行うのが自分ひとりだったとしても、自分にできることをすれば、ほかの人にも自分にできることをするように促せる。また、その行動は、社会の多くの貧困や憎しみに、少しの善をもたらすこともできる。同じような善意がほんの少しでも増えることで、大きな善となる可能性もある。単純な義務を果たすことを怠ってはいけない。
また、身近な人に対する単純な義務も忘れてはいけない。いろいろなことを教えてくれた人や、自分に仕えてくれる人、自分の家族に目を向け、そこから始めるべきだ。自分のかかわりのないことに心を奪われて持ち場を離れる前に、まず自分の活動の拠点に時間を費やしていけば、生き方は単純に、簡素になる。
人が物質的に最良の状態で生きていくために必要なものは、そんなに多くないはずだ。健康的な食べ物、シンプルな服、衛生的な住まい、そして空気と運動といったところではないだろうか。
しかし、同じ人間でも、必要なものの種類や数は人によって異なる。たとえば、一定額以上の給与がなければ生きていけないという人がいる。なかには、自分の財産が許容できる最低ラインより少なくなって生活に困るくらいなら死んだほうがましだという人もいる。その人の最低ラインは、もしかするとほかの人にとっては十分に生活できる財産の量かもしれない。もしくは、つつましい生活をしている人にとっては、うらやましいほどの量かもしれない。
本来は十分耐えうるはずの条件のなかに暮らしているにもかかわらず、人は不満を口にする。なぜなら、人は充足感に慣れ、充足感に飽きると、さらに大きな充足感を求めるからである。食べ物があるからといって食欲が鎮まるわけではなく、食べているうちにまた食欲がわいてくる。つまり、不満を言う人のほとんどは、いつも満ち足りているといってもおかしくない人であり、たくさんのものをすでに持っている人なのだ。
大きな欲求に支配された世界は、未来に負債を背負わせることになりかねない。欲求に支配された人は、現在の儲けを出すために森林を伐採したり、長い時間をかけてつくったものを一日で壊したりしてしまう。
欲求が簡素であれば、こうしたことは避けられる。また、自分自身の欲求も簡素であれば、境遇が変わってもうろたえることは少ないだろう。たとえそれまでの地位やお金を失ったとしても、人間らしくいられるはずだ。
簡素な生き方が精神の在り方にかかわることであるなら、子どもへの教育は大変重要な役割を持つ。
基本的な子どもの教育法には、親自身のために子どもを育てる方法と子ども自身のために育てる方法の二つがある。
前者の教育では、子どもは親の従属物あるいは所有物とみなされ、親につき従いその支配を受ける。この育て方では、大人になっても子どもは自分で意思決定することができず、また素直に自分の感情を表現することもできなくなる。
後者の教育では、逆に親は子どものために存在する。子どもは生まれたとたんに両親や祖父母の中心的存在となり、周囲が子どもの言いなりになるにつれて子どもの権力はどんどん強くなる。このように育てられると、人に対する尊敬の念や同情心を忘れ、世話をしてくれる人たちのことも意に介さないようになる。そして好き勝手に生きていく人間になっていく。
以上の教育法はどちらも不幸な結果をもたらす。子どもは、その子が自分自身となり、同胞を愛することができるように育てなければならない。そこから外れた教育を行うことは、子どもの人生を複雑にしてしまう。
簡素な生活は、子どもにとって最良の学校になるだろう。たとえ裕福な家庭に育っても、子どもがそれで虚栄心を持ち、「自分は他人より勝っている」と信じてしまうようなことはすべて避けなければならない。贅沢なおもちゃや楽しみを与え過ぎず、食べ物や衣服にしても欲しがるままに与えてはいけない。何かのきっかけで贅沢な暮らしができなくなったときに不幸になってしまわないように、簡素に育て、たくましく鍛えよう。そうすることで、安楽のために自分を売ったりしない、幸せになる能力を持った人間になるだろう。
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