古代から一千七百年間もの長きにわたって、イスタンブルは世界の主人公として存在していた。
BC六六〇年頃、ギリシャの都市国家メガラの人々が、黒海交易の要所として目をつけ、移り住んできたことからこの都市の歴史は始まる。ビザンティオンと名づけられたこの地は、幾度か統治者が変わったが、BC七三年にローマ帝国の支配下に入る。
三三〇年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世が帝国の首都をローマからビザンティオンに移し、自らの名にちなんでコンスタンティノープルと改名した。
皇帝テオドシウス一世(在位三七九―三九五)がキリスト教を国教化したことで、コンスタンティノープル教会は最高権威を手にした。そうしたことや、テオドシウス一世が偶像崇拝を禁止したことなどをめぐって、コンスタンティノープル教会と、それまで大きな権威を持っていたローマ教会との対立は次第に深まっていくこととなった。
そしてついに一〇五四年、両者は共に相手を破門し、ローマ教会は自らを「カトリック教会」、コンスタンティノープル教会は「正教会」(または「ギリシャ正教会」)と呼ぶようになる。
一方、コンスタンティノープルは、この間、幾度となく外敵にさらされることとなった。東方のトゥルクマン(イスラム教を信じるトルコ系遊牧民)のセルジューク朝が東アナトリア半島へ押し寄せ、皇帝アレクシオス一世はローマ教皇や西欧諸国に傭兵の派遣を依頼した。
救援要請から十四年遅れて、ローマ教皇ウルバヌス二世は、イスラム勢力からの聖地奪還を宣言し、十字軍が結成された。その裏には、膨張した若年層に東の豊かな土地を与えようという思惑があった。この十字軍の第一回編成から百年後、一二〇二年の第四回十字軍は、キリスト教の信徒が住む土地であるにもかかわらずコンスタンティノープルを襲い、ローマ帝国の首都は一時陥落した。
コンスタンティノープルは、一四五三年にオスマン朝に攻め落とされ、ローマ帝国が滅亡した。
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