ヨルダンで最悪の監獄、それがアル=ジャフル刑務所だ。峠を転用したこの監獄には、何十年間にもわたって凶悪犯が収監されていた。その後しばらくは使われずに放置されていたが、1998年から再び用いられるようになった。とある危険なイスラーム過激派セクトのメンバーを隔離するためだ。
そのセクトの中でも、ひときわ存在感を発揮していた男が2人いる。ひとりはマクディシというセクトのリーダーであり、説教の能力に秀でた神学者であった。だが真にセクトを支配していたのはもうひとりの男――それこそが、のちに「イラクのアル=カーイダ」の創始者となるザルカウィである。
ザルカウィは髪の色が濃く、背は低いががっしりとしており、まるでレスラーか体操選手のような見た目をしていた。かつて入れ墨が彫ってあった右腕の一部は無理やり剥ぎ取られており、縫合した跡が痛々しく残っている。
心の温かさや機敏というものが、ザルカウィにはまるで欠けていた。ひどくすさんだ界隈で生まれ育ち、高校を中退したあとは喧嘩と軽犯罪に明け暮れる日々を過ごした。アフガニスタン戦争では無謀なほど勇敢に戦い、気に入らない人間には暴力を振るった。
そんなザルカウィだが、イスラーム教に対してはひたすら熱心だった。監獄の中ではコーランの暗記に没頭し、かつての無秩序な暴力は鳴りを潜めた。
だがそれがかえって、ザルカウィの憤懣(ふんまん)を凝縮してしまったのかもしれない。アラーの敵と見なした者への、際限ない憎悪というかたちで。
ザルカウィの刑期は2009年まで続くことなっていた。だがヨルダンでは実際の刑期通りになることはほとんどない。
フセイン一世国王が死去し、長男のアブドゥッラーが新しい国王になると、アブドゥッラーは国内の囚人に対して大赦を宣言した。ヨルダンでは建国以来、新国王が暴力犯罪以外の囚人や政治犯に恩赦を与えることになっている。イスラーム主義者や各地の諸部族からポイントを稼ぎ、政権を安定させるためだ。
だがそれは痛恨のミスだった。国会議員らが釈放する価値のある囚人を選定していったのだが、そのリストにはザルカウィをはじめとした、例のセクトのメンバーも含まれていたのだ。のちにアブドゥッラーは側近に対して「どうして誰もチェックしなかったんだ?」と怒鳴りつけたが、すべては後の祭りだった。
こうしてザルカウィは5年ぶりに自由の身になった。ザルカウィは血のつながっている家族と獄中の仲間たちという、2つの「家族」の間で揺れた。刑務所でともに苦難を過ごした仲間たちはザルカウィに忠実で、どこへでも喜んでついてきた。しかしザルカウィにとって、とくに母親は大切な存在だった。
結局ザルカウィは両方を選んだ。釈放されて家族のもとに戻ったその日に、ふたたび刑務所に戻り、指揮官のごとく囚人たちの様子を確かめに行ったのだ。
当時、この刑務所の医師だった男は「これぞリーダーという姿でした」とザルカウィを称え、こう付け加えた。「この男の運命は2つに1つしかないと思いました。名を轟かすことになるか、さもなければ死だと」。
晴れて自由の身になったザルカウィは、その後いくつかの国を転々としながら、次の戦場をイラクに定めた。
当時のアメリカ政府がザルカウィに注目しはじめたのは、2002年10月28日のアメリカ人外交官暗殺事件がきっかけだ。アメリカ政府は、アル=カーイダと繋がりのあるザルカウィこそが暗殺を命じた張本人であること、そしてアル=カーイダとサダム・フセインのあいだには実行的な関係があることを確信していた。中央情報局(CIA)から「明確な証拠はない」と伝えられていたにもかかわらずだ。
そして2003年2月5日、世界ははじめてザルカウィを知った。
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