1962年、著者は自分の道を歩みはじめようとしていた。人生は朝のランニングのように束の間だ。だからこそ自分の時間を意義のあるものにしたかった。世界に足跡を残したかったし、勝ちたかった。とにかく負けたくなかったのだ。そして閃いた。スポーツのような人生を送りたいと。
著者はもともと偉大な陸上選手になりたいと考えていた。しかし残念ながら大成することはできなかった。24歳になった著者はその事実をようやく受けいれたが、だからこそ残りの人生は自分に見合った夢を見つけて、アスリートのように一心不乱にそれを追い求めたいと考えた。人生はゲームだ。プレーすることを拒めば取り残されてしまう。
日本のランニングシューズをアメリカで売り込むという、以前から温めておいたアイディアを実行するべく、著者は自分にこう言い聞かせた。「それが馬鹿げたアイディアだと言いたい連中には、そう言わせておけ……走り続けろ。立ち止まるな。目標に到達するまで、止まることなど考えるな。”そこ”がどこにあるのかも考えるな。何が起ころうと立ち止まるな」。
著者はこの言葉を胸に秘めながら、今後の人生を走り続けようと決意した。
著者のアイディアは、もともとスタンフォード大学時代に考えついたものだ。起業についてのセミナーで靴に関するレポートを書くことにしたところ、すっかりその内容に夢中になってしまった。レポートの中で、著者は日本のランニングシューズのもつ大きな可能性について力説した。数週間かけて輸出入や起業に関するあらゆる文献をむさぼり読み、頼まれもしないのにクラスメートの前でプレゼンテーションもおこなった。その結果、見事Aの評価を得ることができた。
だがこの情熱は授業だけで終わらなかった。日本に行って靴会社を見つけ、自分の馬鹿げたアイディアを売り込む。さらに日本へ行き帰りする途中で、さまざまな国を見て回る。アメリカから飛び出して世界を見ないことには、世界に足跡を残せるはずもない。人生という旅を始める前にさまざまな神聖な場所に出向き、人類が歩んできた偉大な旅をまず理解しなければならない。著者はそう考えていた。
当時のアメリカでは、日本へ行くというのはかなり抵抗のある話だった。なにせ少し前までアメリカと戦争をしていた国である。しかし家族から無事に合意と金銭的な補助を取りつけることができた著者は、ハワイを経由して単身日本へと渡ったのだった。
飛行機から見渡す東京は驚くほどきらびやかだった。しかし日本に到着後、ホテルへ向かう車から見えたのは暗闇だけだ。アメリカが落とした爆弾によって、多くの建物が失われていた。著者は複雑な気持ちを抱きながら、日本の街を見てまわった。
幸いなことに、東京には父親の知り合いが何人かいた。彼らの導きで『インポーター』という月刊誌の編集部を訪ねた著者は、そこで日本でビジネスをする時の心得を教わることになる。「コツは、ゴリ押ししないことだ。典型的なアメリカ人つまり典型的な外国人みたいに、不作法に大声で攻撃的に振る舞わず、ノーと言わないことだ。日本人は押しの強さに反応してくれない」
日米のルールの違いに戸惑いながらも、著者はすぐさま行動に移しはじめた。著者が気に入っていたのはタイガーというブランドで、神戸にあるオニツカという会社が製作している。ならば行くべきは神戸だ。
神戸に到着した著者はオニツカの重役たちに対して、アメリカでの代理店契約を取ろうと必死になって自分を売り込んだ。だが著者は肝心なことを忘れていた。自分の会社名も考えていなかったのである。
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