いたずらに情報や知識を集めて喜んではならない。大切なのは自分にとって未知のものを見つけ出し、それをもとに自分の”知見”を創出することだ。
ただし未知のアイディアを正面から捕まえようとしても、なかなか一筋縄にはいかない。むしろ気にしていないように振る舞っているときにこそ、アイディアは降ってくるものである。とにかく何かに対して一心不乱に努力しよう。精神が研ぎ澄まされているときにこそ、予想外のアイディアが舞い降りてくる。
また失敗のなかにも、多くのすばらしいアイディアが詰まっている。たとえば化学には失敗がつきものだが、失敗のなかには新しい発見も多い。セレンディピティ(思いがけないことを発見する能力)とは失敗、間違いの異名なのだ。
さらに場所も重要である。かつて中国の欧陽脩(おうようしゅう)は、文章を練る際にもっとも妙案が浮かぶ場所として、三上(枕上、鞍上、厠上)を挙げた。他のことをしているときにこそ、精神は最大の自由を獲得するものだ。そして予想もしなかった名案が浮かぶのも、まさにその瞬間なのである。
知識から思考が生まれることはほとんどない。仮に生まれてきても、それは小粒で非力なものだ。なぜなら思考とは、生きている人間の頭から生まれるものだからである。ゆえに研究室で本を読んでいる人は思考に適さない。生活が貧弱だからだ。
たしかに知識は「力」である。だが知識が多くなると、自分で考えることをやめてしまう。極端にいえば、知識の量に反比例して思考力は低下する。本を読んで得られる知識は過去形のものばかりだ。もちろん使えるところはあるが、それだけでは不十分である。どうしても現在形の思考力や判断力が求められる場面はある。そういうときに、死んだ知識は役に立たない。
重要なのは常に問い、疑うことだ。自分にとって新しいことに遭遇したら、自問してみるとよいだろう。常識になっていることに対しても、「ホントにそうだろうか」と問いかけてみるべきである。ただし、こうした問いかけ方は少し具体的すぎる。さらに自由な思考をするためには、「なに」や「なぜ」を問うだけでは不十分だ。未知を考えなければならない。
本は読みっぱなしにせず、あとでかならず感想を書くようにするべきだ。書くことは面倒なことだが、頭脳をよくするもっともすぐれた方法なのだから。
思いついたことを書く際は、手帳を活用するのがオススメである。手帳のメモに思いつくまま書きつけていこう。書きっぱなしではおもしろくないので、少し時間を空けたら見直してみる。そうすると、もっとおもしろいアイディアが生まれることもある。新しく生まれたアイディアは、用意したほかのノートへ移してあげるのがいいだろう。
このとき、雑然とメモを並べるのではなく、通し番号をつけておくと参照する際に便利である。記入した日の日付も加えておくと、思わぬ瞬間に役に立つ。
学者にかぎらず、何かひとつだけに打ち込んでいる人にはどこかおかしいところがある。
純粋すぎるのは考えものだ。人間は多少、不純なぐらいがちょうどいい。清濁併せ呑む人間こそ大きくなれる。人生を豊かにするためには、わき道にそれることも必要だ。「純粋であることはよいことだ」と私たちは教育されてきたが、むしろ雑は純一(じゅんいつ)よりも豊かなのである。
3,400冊以上の要約が楽しめる