「矢野博丈」は改名した名前だ。親からもらった名前は「栗原五郎」という。
矢野の祖父は広島の大地主であったが、莫大な借金を背負って没落した。さらに、戦後の農地改革で、栗原家は五反百姓に転落してしまった。「人生は絶対にうまくいかない」という矢野の確信めいた思いはここから生まれたという。父親は医者だったのだが、裕福な暮らしとは縁遠く、常に貧乏だった。
矢野は広島市の高校に進学すると、市内で育った子どもたちから広島の田舎の言葉をバカにされるようになる。その様子を案じた叔父の勧めにより、ボクシングを習うようになった。矢野はボクシングに向いていたようで、高校三年になると一九六四年に開催される東京オリンピックのバンタム級強化選手に選ばれるほどになった。一時はボクシングの選手を目指そうとも考えたが、闘争心を上まわって恐怖心があることに気づき、大学へ行くことにした。
大学では勉強よりアルバイトに明け暮れていた。矢野は働くことが好きだった。妻の勝代とは、学生時代に知り合って結婚をした。このときに、勝代の苗字である「矢野」になる。将来商売で生きていくことを想像して、屋号とするのに言いやすく、親しみやすい苗字がいいと思ったのだ。「五郎」という名前は、のちに起業をしたとき、貫録を出すために、姓名判断の先生に相談して「博丈」と変えた。
大学を卒業した矢野は、妻の実家の稼業を継ぐことにした。勝代の実家は、広島の尾道市で有名な魚問屋を経営し、養殖業にも参入していた。しかし、そこにはたいへんな状況があった。義父に頼まれて両親や兄たちに七〇〇万ほど借金をしたが、経営は上向かない。家業は潰れかけているのに義父は拡大路線を曲げず、さらに借金を要求してくるので、矢野は勝代と二歳半になる長男と、夜逃げのように尾道を離れた。
その後しばらくの矢野の人生は、波乱万丈そのものだ。百科事典のセールスマンになるものの、まったく売れずに挫折を味わう。ちり紙交換で成功したと思ったところで、ある一家の養子になるようにと広島に呼び戻されるが、その家族の、矢野の子どもへの態度に疑問を感じて家を飛び出す。
ところがある日、日用雑貨の移動販売に出会い、その道に入ったことが矢野の転機になった。「大阪屋ストアー」というその店は、大阪でトラックに荷物を積んで、港町を転々としながら公民館などを借りて移動販売をしていた。最終的に親方と決裂して独立することになったが、商売はうまく進んだ。
矢野の商売はバカ正直だった。親方が場所代を少なめに設定していた一方で、矢野は多く売れたと見栄を張って、場所代を多くはずんでしまうことしばしばだった。場所を提供してくれた側の「よく売れましたねえ」という言葉がうれしくて仕方なかったのだ。正直な「お客様第一主義」の商売もリピーターの獲得につながり、矢野は知らない間に多くの人たちに愛されるようになっていた。
矢野は移動販売の商売で独立し、昭和四七年に「矢野商店」を創業した。けれど矢野は弱気で、「この商売は、いずれ潰れる」と思っていた。会社の規模を大きくすることには興味を持たず、「夫婦で一番売るトラック売店」という身近な目標を立てた。自分の親にこれ以上心配をかけたくなかったので、粗利を追求するのでなく、原価が高くて客に喜んでもらえる商品をコツコツ売る道を選んだ。
矢野は、二トントラックに商品を積んで移動し、ベニヤ板に商品を並べて売っていた。
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