ホンダは、1円も利益をあげない航空機の研究開発を続けてきた。30年のときを経て、完成したホンダジェットは、事実上の国際標準となっている型式証明を取得した。航空機史上に歴史的なマイルストーンを築いたといってよい。
ホンダはもともと、飛行機開発のノウハウがゼロだった。世界には数多くの自動車メーカーがあるが、航空機メーカーを兼ねているのはホンダだけだ。また、民間の航空機産業では、エンジンメーカーと機体メーカーが別々に存在するのが常識だが、ホンダは両方を手掛けている。これも世界に例がない。
ホンダジェットの成功について、世間一般の人々は、創業者である本田宗一郎の夢をホンダの社員たちが引き継ぎ、実現させた物語として見ている。しかし、実際に開発に携わった社員たちは、創業者の夢をかなえるという思いだけで続けてきたわけではない。航空機の開発は失敗と挫折の連続であり、携わった人それぞれにとっての、「夢の実現」をかけた闘いだった。
1914年、静岡県浜松市。当時8歳だったホンダの創業者、本田宗一郎は、米飛行士が操縦するカーチス製の複葉機を見た。それが宗一郎と飛行機との出合いだった。飛行機を見たいがために、父親の自転車を借りて20キロ以上離れた練兵場に出かけるほど、その魅力に取りつかれた。
宗一郎は1946年に本田技術研究所を開設し、自転車用補助エンジンを製作した。さらにはモーターサイクルの開発を進め、企業として急速に発展する。オートバイレース世界最高峰「マン島TTレース」に出場し、1961年には125ccクラス、250ccクラスともに、1位から5位までを独占し、世界一を経験した。さらに60年代はF1レースにも参戦した。レースに勝つには、精神的な鍛練と技術の向上が求められるうえに、世界一になったからといって業績に貢献できるわけではない。にもかかわらず、ホンダの社員たちは「やればできる!」という精神で挑戦した。こうした企業風土が、ホンダの航空機開発の基盤となった。
ホンダは、1962年に航空機の設計に携わる人材を募集するようになった。ただし、これは単に創業者の夢の実現をめざしたものではなかった。ホンダは航空機産業に日本の産業の未来を見ていたのだ。しかし、その後、ホンダの経営環境は四輪に集中せざるをえない状況となり、いったんは航空機開発から遠ざかることとなった。
飛行機開発の系譜が途切れて22年後の1986年。ホンダは基礎技術研究センター(以下、基礎研)を立ち上げる。研究テーマの一つは航空機開発だった。
基礎研の生みの親・川本信彦は、井上和雄に航空機プロジェクト全体の統括責任者になるよう声をかけた。井上は伝説の技術者、ホンダジェット開発の第一のキーパーソンである。井上は、部下たちに「カミソリみたいな人」と恐れられる存在だった。強いオーラを放ち、独裁的で、我が道を突っ走るタイプのため敵も多かった。
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