日本の再興を考える際に、明治初期や昭和のことを思い出して、欧米を見習おうと思うことは大きな間違いである。
そもそも「欧米」というものは存在しない。欧州と米国を一緒くたに考えている西洋人はどこにもいない。日本は欧米という呼び方を捨て、具体的な国について語るべきだ。それだけでもかなり議論がしやすくなるはずである。
日本の大学システムの設置理念は欧州式だが、資金運用などの面はアメリカ式を取り入れている。また法律はドイツ式の刑法、フランス式の民法、米国式の憲法を基盤としている。このように日本は、歴史も文化も異なる国の方法を継ぎ接ぎで採用している。いいとこ取りといえば聞こえはいいかもしれない。だが時代が変化したことで、その弊害が出ている状況だ。
日本はいま一度、自国の歴史を振り返りながら、今度どう変わっていくべきかを整理するべきである。
「欧米」という幻想にとらわれてはならないが、欧州や米国から学ぶことを完全にやめる必要もない。重要なのは日本の原点や向き不向きを見極めたうえで、学ぶ価値があるものとないものを峻別していくことだ。
世界が求めている産業に対応するために、日本は戦後に作られた精神構造を変形させつつ、システムやテクノロジーの更新を行なう必要がある。これまでの工業的な生産様式を、ITやイノベーションに向いた生産様式へと変えるときが来ているのだ。
同じものを大量に作るのではなく、個々のニーズに合わせて多様なものを柔軟に作る。そういったフットワークの軽さを、これからのリーダー層や経営層は身につけるべきである。
インド人に対して、「あなたにとってカーストとは何か」という問いかけると、「ひとつの幸福の形」という答えが返ってくることがある。カーストがあると職業選択の自由はなくなるが、代わりにある種の安定が得られるからだろう。
日本にかつてあった士農工商は、まさにインドにおけるカーストのようなものである。そういう意味で、日本はカーストにも適応できるといえる。
私たちは幸福論を定義するとき、つい物質的価値を求めがちだ。しかし実は生業が保証されることこそが幸福につながるのである。生業が保証されていると、それに打ちこむだけでいいからだ。
とはいえインドのカーストには問題も多い。日本ではインドよりも職業の行き来がしやすい、コミュニティのようなカースト制度が望ましいだろう。なおその場合、ほとんどの日本人は「農」を担う現代の百姓となる。とはいっても、なにも農業に立ち返れというわけではない。ITの民主化によって、「何かを作り出せる人」が活躍していく時代になるということだ。
ひとつの特化した専門職をもたず、さまざまな仕事をその時々によって担う多動力が、これからますます重要になってくる。そうした時代では、まさに100の職をもつ「百姓」が求められるというわけである。
産業革命時のもっとも大きな変化のひとつは、タイムマネジメントという概念の導入であった。それによって近代の軍隊や工場が成り立ち、大量生産方式が生まれた。
近代以降の私たちは、集約され働くことによって生産効率を上げていった。その基盤にあるのが「時間を同期して、労働力の単位で区切っていく」という考え方だ。しかしここから画一主義が生まれ、マスとマイノリティの対立へと発展。健常者と障碍者という区分け、男女差別など、さまざまな問題の発生に至った。
しかし今後は、機械が担ってくれる分野の能力は必要なくなる。
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