現代においてAI(人口知能)はまだどこにも存在していないということを、まず明らかにしておかなければならない。「人工知能」というからには、人間の一般的な知能とまったく同じとまではいかなくても、同等レベルの能力を持っているべきである。だが実際はそうではない。
いまのコンピューターがしていることは基本的に計算である。人工知能の最終的な目標は、人間の知的活動をすべて四則計算で表現すること、少なくとも「表現できている」と私たち人間が感じる程度に近づけることだ。だがその目標に到達する可能性はきわめて低い。結論として、近い未来に人工知能が誕生することはないだろう。
では巷でAIという言葉が氾濫しているのはなぜか。それはAIと「AI技術」が混同して使われているからである。AI技術というのは、AIを実現するために開発されているさまざまな技術を指す言葉であって、AIそのものではない。たとえばiOSに搭載されているSiriも、厳密にいうとAIではなくAI技術である。「AI技術」をAIと呼ぶことによって、私たちはAIがすでに存在していると錯覚しているのだ。
またシンギュラリティ(技術的特異点)がもうすぐやってくると主張する人は多いが、これも疑わしい主張である。シンギュラリティとはAI技術ではない「真の意味でのAI」が人間の能力を超え、自分より能力の高い「真の意味でのAI」をみずから作り出せるようになることを意味している。だが「真の意味でのAI」が生まれる可能性は、少なくとも近未来においてはほとんどない。よってシンギュラリティがまもなく訪れる可能性も、限りなくゼロに近い。
世界で最初にAIという言葉が登場したのは1956年のことだ。コンピューターがまだ巨大な装置だった時代に、世界初の人工知能プログラム「ロジック・セオリスト」が発表された。ロジック・セオリストとは、自動的に数学の定理を証明するプログラムである。
この時期に「プランニング」と呼ばれるAIの原型が生まれたが、現実の問題は複雑な事象が絡みあうため、問題解決には役立たなかった。これは「フレーム問題」と呼ばれ、今なおAI開発の壁となっている課題のひとつである。
1980年代に入ると、AI研究に新たな時代が訪れる。コンピューターに専門的な知識を学習させ、問題を解決するというアプローチが全盛期を迎えた。たとえばコンピューターに法律の知識を学習させ、その道のエキスパートを作り出すという試みだ。しかしコンピューターに法律や判例を詰めこむことはできても、常識や人の感情を学習させることは難しく、実用的なシステム構築には至らなかった。
1990年代半ばに検索エンジンが登場すると、インターネットが爆発的に普及する。さらに2010年代に入ると、ディープラーニングという統計的な方法論が用いられるようになった。ディープラーニングは脳を模倣して作られた数理モデルであり、そのうち人間と同じように考えるようになるといわれている。だがあくまでもこれは「数理モデル」だ。数値化できない人の感情や生き方を、現在のAI技術が理解することはありえない。
前述のとおり、いまAIと呼ばれているものはAI技術にすぎない。ただしここからは便宜上、AI技術も含めてAIと呼称していく。
2011年、AIを東大に合格させる「東ロボくん」プロジェクトが始まった。
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