星野仙一(以下、星野)の生い立ちには、常に女性の姿があった。星野の父である仙蔵は、仙一が生まれる3カ月前に急死。母親の敏子は、仙蔵が勤めていた三菱重工水島野球部の青葉寮の寮母をしながら、朝から夜まで子供のために働いた。そこには父親のいない仙一に苦労をかけたくないという思いがあった。また彼の姉2人も女子大に行かせるなど、一家を一心に支えた。
その母親がくりかえし仙一に言い続けたのは、「人のために考えて生きる人になれ」ということだった。星野がのちに「自分一人では何もできない。他人の力があってこそ」と考え、人の気持ちを見抜く眼力と本質的なやさしさを兼ね備えるようになったのは、自分を支えた母親の姿と言葉があったからである。
星野野球の原点を探ると、母校・明大の野球に行き着く。「御大」と呼ばれた島岡吉郎監督のもと、星野は“人間力”を学ぶことになる。
上下関係の厳しさは天下一品だった明大野球部で、島岡御大のいうことは絶対だった。だが島岡野球の厳しさと激しさの裏側にあるのは、あくまでも人への優しさである。星野は島岡監督によく叱られたと語るが、そこに憎悪の感情はまったく残っていない。星野は島岡監督の叱る姿勢を見て、「愛情をこめて殴るのであれば、本気で殴ってもいい」と考えるようになった。のちの球界名物になった星野の鉄拳制裁は、ここから生まれたわけだ。
また星野は「殴ったら必ず次にチャンスを与える」、「叱るときは、人前ではっきり理由をいって叱る」という姿勢を徹底していた。叱られた選手がそこで終わりにならないよう、そしてチーム全体によい緊張感と活気を与えられるよう、あとに引きずらない叱り方を、明大時代の島岡野球から学んでいたのだ。
星野は1969年、中日にドラフト1位で入団した。だが憧れの巨人(8番くじ)に選ばれず、中日に10番くじで引き当てられた悔しさが、星野のその後の野球人生に大きく影響を及ぼした。
星野は東京六大学時代からの投げすぎが原因で、入団当時から右肘を痛めていた。そのため得意のストレートとカーブのみで勝負するのではなく、フォークやスライダー、シュートを身につけ、うまく使い分けることを余儀なくされる。結果として力で勝負するよりも、コントロールと配球でかわすピッチングが身に着いた。
「ケンカ投法」のイメージを作り、攻めの姿勢を見せながらも、変幻自在の投法で相手打者を翻弄していった星野は、強敵・巨人から通算35勝31敗の成績を残している。これは歴代5番目の数字だ。しかもこのなかで巨人相手に勝ち越したのは、星野を除くと1人(平松政次)しかいない。
星野はほしいものなら、かならず手に入れようとする性格だった。だがその一方で、非情さを発揮することも少なくなかった。
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