マイケル・サンデルは、『リベラリズムと正義の限界』などの著作において、ジョン・ロールズが『正義論』で示したリベラリズムを批判したことで知られている。現実世界では対立する複数の価値があるが、ロールズは全ての人が合意できる「正義」の原理を導くために、私たちが実際に抱いている価値を忘れた状態の自我という観点から議論を構築した。
それに対してサンデルは、実際に私たちが共同体で生まれ育っていく過程で抱くようになった「善」の観点を重視する。このようなサンデルの立場は、共同体主義(コミュニタリアニズム)、もしくは共和主義として知られている。
社会や国家の問題を考える際、共同体における善や道徳を重視するという点で、サンデルの主張は儒教の考えと重複する部分が多い。その上で、李晨阳は、儒学の観点からすれば、サンデルのリベラリズム批判の多くを支持できるものの、健全な共同体主義の社会を築くにはサンデル版の共同体主義では物足りないと主張する。
ロールズにとって、正義は数ある美徳のうちの一つではなく、ほかのあらゆる価値がそれを基準にして測られるべき最も重要な価値であった。サンデルは、正義はある条件下で社会制度の第一の美徳になるにすぎず、絶対的なものではないとしている。たとえば、理想的な家族関係においては自然発生的な愛情によって統制されるため、正義が中心的役割を果たすことはない。
古典的な儒教思想家にとって善き社会とは、ロールズ的な意味の正義に近い「法」によって律されている社会ではなく、「礼」や「仁」が広く実践されることで「法」に依存しない社会、正義が最も重要でなくてもかまわない社会である。「礼」や「仁」という美徳の実践によって、人びとは共同体の強い連帯意識と、最も価値の高い美徳としての調和を育むことができるようになる。サンデルの共同体の概念には、この調和という概念が含まれていない点に大きな欠落がある。
個人の権利を根拠とするリベラル派にとって、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)をどのように正当化するのかということは大きな問題となる。サンデルは、自分自身を個別の主体ではなく、共同体における共通のアイデンティティへの参画者としてみなすことで正当化できるとした。
だが、儒者の観点からすると、サンデルの解決策は不十分である。儒者にとって、社会的調和は善き生に欠かせないどころか、善き生そのものである。調和とは、単に対立のない状態のことではなく、それぞれが潜在能力を発揮し、ほかの要素と一緒になって各要素の最善の部分を引き出す統一体を形成することである。人種的多数派が少数派と調和的な関係を築き共同体の構築に積極的に関わっていれば、人種的平等の必要性を感じ、共通の強い目的意識を社会と分かち合う可能性が高くなるだろう。調和が進む社会は、一時的に人種的多数派に犠牲を強いることがあっても、長い目でみれば恩恵をもたらす。
『民主政の不満』という著作において、サンデルはアメリカの政治史を、道徳的・宗教的意見に対する政府の中立性を重視するリベラリズムの観点ではなく、共通善に関して市民間で話し合い自己統治を行うとする共和主義の観点を支持している。
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