好き嫌いとは「良し悪し」で割り切れないもののことだ。例えば近代社会における「民主主義」や「言論の自由」といった価値観は、個人的な好き嫌いの範疇を超えた、普遍的な場所にある。普遍的な価値観が個別的になっていくと、国や地域や組織の「文化」となる。
文化とは、ある境界の内部で共有された価値観(良し悪し)であり、ローカルなものだ。それをさらに個々に切り分けていくと、個人の好き嫌いとなる。つまり「局所化された良し悪し=個人の好き嫌い」だと言える。
これを氷山に例えると、海の上に出ている目に見える部分は「良し悪し」だ。時間に遅れてはいけない、殺人はいけないなどといった、広い範囲で社会的合意の上に成り立つ価値観である。しかしそれは氷山の一角に過ぎない。饂飩か蕎麦か、蕎麦なら温かいのか冷たいのか、たぬきかきつねか天ぷら蕎麦か、薬味はネギか七味かそれとも両方か。水面下には無数の「好き嫌い」が広がっている。この好き嫌いには個人差があり、人により異なる。
世の人々は「良し悪し族」と「好き嫌い族」に分かれる。好き嫌い族にとって、良し悪しは「氷山の一角」に過ぎない。彼らにとっての世の中は、個人の好き嫌いの集積だ。だから多少気に入らないことがあっても「ま、それぞれだからいいんじゃない?」とやり過ごす。
しかし最近、良し悪し族が幅をきかせてきているように見える。彼らは個人の好みとしか言えないような問題でも、「ここがおかしい」「こうならなければならない」と、良し悪し基準を持ち出して声高に主張する。
インターネットの時代になり、行動の自由は増した。しかしその一方で、人々は他人の目に映る良し悪しをこれまで以上に気にするようになった。政治家でもない一般人が、大した根拠のない「コレクトネス」に縛られ、自由に考えたり行動できなくなったりしている。
世の中を成り立たせるために、価値観の共有は必要だ。しかし、市場経済や自由主義という「普遍的な価値観」も、水面下では個人の好き嫌いが支えている。そもそも、近代以降の思想・制度は、個人の意思や選択、行動といった好き嫌いが前提にあるものだ。
どんな商売も、最終的には「業績」という良し悪し基準へたどり着く。しかし著者の場合、そこへ至る道、すなわち「戦略」は、好き嫌いで決める場合がほとんどだ。
戦略とは「競合他社との違いをつくる」ということ。他社と同じことをやるだけでは、戦略にはならない。例えば、ZARAとユニクロは同じファッション業界に位置しているが、両社が考える「良い」は違う。ZARAは短いサイクルで多品種少量生産することを「良い」とするが、ユニクロはその戦略をとらない。スポーツと違い、ビジネスでの競争はプレイヤーそれぞれが「違い」をつくり、異なった位置を選ぶ。つまり、同じ業界で同時に複数の「勝者」が存在しうるということだ。ZARAとユニクロは、いずれも勝者である。
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