「ついにこの日がきたか」
2012年、当時37歳だった小澤輝真氏(以下、小澤)は、進行性の難病である「脊髄小脳変性症(SCD)」を発症。余命10年と宣告された。この病気にかかると、小脳と脊髄などが委縮し、神経細胞が徐々に死んでいく。次第に手足が動かなくなり、話す言葉も不明瞭になっていく。最終的には肺の機能が低下し、呼吸が止まってしまう。
現状では有効な治療法は確立されておらず、いわば不治の病だ。日本では10万人に5~10人の割合で患者がいる。
余命宣告の際に、冒頭のような感情が湧き上がってきたのはなぜか。それは、小澤の父方の祖母の家系にある人や小澤の父親も、この病気で命を落としていたからである。SCDには遺伝という特徴がある。遺伝によるSCDは全体の3割程度といわれている。また、その家系のすべての人に遺伝するものでもない。このように、未解明のことが多い病気なのだ。
日頃はものすごくポジティブな性格である小澤も、さすがにこたえ、すぐには家族に病気の発症を伝えられなかった。人生がこの先10年で終わることへの絶望、家族と別れるつらさ、怒り、無念さ。色々な感情が湧きあがるなか、もっとも心を占めていたのは、子どもたちへの遺伝に対する恐怖だ。
宣告から1か月後、小澤が余命について妻に切り出したとき、妻はショックを受けながらも、最後は受け入れてくれたという。また、会社の幹部たちを通じて、社員にも病気のことを伝えた。退職者が増えるという懸念は杞憂に終わった。
北洋建設では、元受刑者に、自分の前科を隠さないことを条件に働いてもらっている。前科を隠すと、本人が負い目を感じて苦しくなってしまう。さらには、嘘を重ねることになり、信頼関係が育ちにくい。小澤は、病を負い目に感じて隠していた1か月を通じて、元受刑者たちが感じる生きづらさのようなものを疑似体験した。自分をオープンにし、周囲がそれを受け入れることは極めて大切なことなのだ。
小澤の父は、とび職を経て、1973年、北洋建設の前身である小澤工務店を創業した。現場の作業員を見つけるために目をつけたのが、近所の札幌刑務所だ。刑期を終えた元受刑者たちを次々とスカウト。
当時の建設業は、人をいかに抱えるかが重要とされた。「元はみ出し者」を徹底的に受け入れることで、人手不足を解消し、売上を順調に伸ばした。周囲に元受刑者がいることは、小澤にとって、日常の光景である。
小澤の父はとにかく面倒見のよい性格だった。毎日のように社員たちを家に連れてきては、夕食をふるまい、酒をくみかわした。酒が入るとしばしば喧嘩が始まる。しかし、小澤の父や母がとめると、喧嘩はぴたりとおさまった。小澤の母は創業時からずっと、毎朝4時から何十人もの社員たちの朝食や昼の弁当をつくってきた。北洋建設のお母さん的な存在だったのだろう。
「社員は家族」という小澤の考え方は、こうした父と母の姿がベースになっていることはまちがいない。
小澤は十代の頃、髪をピンク色に染め、耳にピアスをしたバンドマンだった。バンドの活動資金を得るため、花屋さんの面接を受けたときのことだ。「なんだ、その頭は!」履歴書をビリビリに破られ、投げつけられた。他の面接でも、「中卒じゃあちょっとね」といわれることもしばしば。
やる気に満ちているのに、見た目や経歴で落とされる。このときの理不尽な経験は、元受刑者を積極的に雇用するという小澤の信念にもつながっている。
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