稲盛和夫(以下、稲盛)は、昭和7年1月、鹿児島市薬師町に生まれた。
子どもの頃は甘えん坊で、四六時中母親のキミのあとを追いかけ回していた。一度泣き出したらなかなか止まらず、“3時間泣き”とも言われていたほどだ。
恵まれていたのは、周囲に“一生懸命知恵を絞り汗をかいて働く”人がたくさんいたことだ。祖父の七郎は年をとっても行商をしていたし、父の畩市(けさいち)は独立して「稲盛調進堂」という印刷会社を経営していた。
自宅の隣にあった印刷所は、稲盛にとって格好の遊び場であった。だが、忙しく働く父親の手伝いはしなかった。将来、仕事の虫になることなど想像もできないくらい、家の手伝いもろくにしない、やんちゃな甘えん坊だったという。
政治家や経営者には信仰心の篤い人が多い。稲盛もそのひとりだ。
稲盛家では毎朝、両親とともに仏壇に手を合わせる習慣があった。畩市は子どもたちが独立すると仏壇を買って持たせたし、キミは「阿弥陀さんは、あんたらがいくら嘘を言ってもちゃんと見抜いていなさるんだからね」「お母さんもわかっているんだよ。前から見てるだけじゃない。後ろにも目があるんだから」と語って聞かせていたという。
稲盛の原点には、子どもの頃の特殊な宗教体験があった。「隠れ念仏」だ。他の親子とともに日没後の暗い山道を登っていき、そこにある民家で線香をあげて拝むという儀礼だ。この秘密めいた儀式は、畩市の故郷である小山田で、一種の通過儀礼として引き継がれている。
稲盛も集会場に赴き、お坊さんから「これから毎日、『なんまん、なんまん、ありがとう』と言って仏さんに感謝しなさい」と言われたという。「なんまん」とは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」がなまったもの。これはその後、稲盛の中で“内なる口癖”となり、謙虚さと感謝を忘れないための祈りの言葉となった。
中学のとき、稲盛は父の仕事を手伝って紙袋の行商を始めた。平日は学校が終わってから、日曜は朝から働いた。
初めは鹿児島市内の大きな闇市を手当たり次第回った。だがやがて、効率を上げるべく、市内を7つに分け、曜日を決めて回るようにした。稲盛は闇市のおばさんたちの間で“袋売りの坊や”と評判になっていく。
ある日、菓子問屋のおかみさんが、卸しという方法を教えてくれた。おかみさんの店に紙袋を置いておけば、串木野や川内(せんだい)から仕入れに来たお菓子屋さんに売ってくれるというのだった。卸しを始めたことをきっかけに、わずか半年ほどで鹿児島市内の紙袋を全部独占することとなる。
その後、大量注文に対応するため、小学校を出たばかりの子を雇って行商を続けた。「私の事業の原点は行商にある」――稲盛はそう当時を振り返る。
歴史の浅かった鹿児島県立大学に進学した稲盛は、就職で苦労する。
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