北里は1883年(明治16年)に東京大学医学部を卒業し、内務省衛生局に入る。この進路の選択には、本人の次のような考えがあった。まだ大学在学中、25歳のときに書かれたものである。
「医の真の在り方は、大衆に健康を保たせ安心して職に就かせて国を豊に強く発展させる事にある。人が養生法を知らないと身体を健康に保てず、健康でないと生活を満たせる訳がない。(中略)人民に健康法を説いて身体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐのが基本である。」(結社活動の講演原稿『医道論』。1878年4月執筆)
ここに見られるのは、病を未然に防ぐ「衛生」を通じて天下国家に貢献したいという志である。北里は衛生局に入局後、細菌学、実験医学の領域に足を踏み入れることになる。その仕事が認められ、2年後の1885年にはドイツへの留学が命ぜられる。北里が向かったのはベルリンにあるコッホ研究所であった。
18世紀のヨーロッパでは、博物学が格段の発展を遂げた一方で、医学では、病理学、生理学の分野において大きな進展が見られた。人体の構造や病気における細胞学的な変化の理解が進んでいた。
19世紀になり、フランスのパスツールによって新たに細菌学が創始された。病気には空気中の細菌を原因とするものがあり、誰もが感染、発病する可能性のあることを明らかにしたのである。その細菌学は、英国のリスターによって、感染を防ぐための消毒法(防腐学)という新しい学問として発展した。さらにドイツにおいては、結核菌やコレラ菌を発見したコッホという細菌学の巨人が生まれたのである。
1886年(明治19年)1月、コッホ研究所での仕事が始まった。そこでは、多くの弟子に分業のように「実験」のテーマが与えられ、コッホはそのデータを積み上げることによって新たに理論を組み立てる、あるいは病原菌の存在を証明するという方式で仕事が進められていた。実験は、あらゆる可能性を片っ端から潰していくという絨毯爆撃にもたとえられるものだった。
北里も当初はそうした弟子のひとりであったが、間もなくその実験の成果で周囲を驚かせることになる。北里は長時間にわたって用意周到に、精密に実験を繰り返した。それに加えて根気、体力勝負という独特の面もあった。こうした圧倒的な熱量は北里の際立った特色であり、実験の鬼とでも呼ぶべきその様相は、オリジナルな実験器具の創案という点でも発揮された。
のちにコッホが日本を1908年に訪れたとき、当時を次のように回想している。初めて北里が訪れたとき、日本人にしては驚くくらいよくドイツ語を話すという印象しかなかった。彼が破傷風菌の純粋培養に成功したと言ってきたとき、老練の研究者が数年間苦労したが成功しなかった難しい実験であったので、コッホは容易には信じることができなかったという。しかし、次に北里が持ってきた破傷風菌のゼラチン培養で動物実験をしてみると、疑いなく破傷風固有の症状が発したので、コッホは直ちに北里の部屋に行って大成功を祝った。北里の実験の方法と順序を聞いて、コッホは「非凡な研究的頭脳と不屈の精神に驚いた」という。
やがて北里は破傷風毒素の研究を続け、免疫体を発見した。そして、その免疫を使って治療に応用したのが「血清療法」であり、これは破傷風菌の純粋培養に続く北里の偉大な医学的貢献となったのである。
コッホのところで、北里は研究をしていただけでなく
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