「もうあと一日です。到着は目の前です。私の肉親――家族はいったいどんな人たちなのかしら。あの人たちに会う前に書く手紙は、これが最後です。今日の午後から計算して、あと246マイルしかありません。何かへんなことが起こらない限り、24時間以内に着きます」
このような書き出しで始まる手紙は、1882年(明治15年)11月19日、サンフランシスコを出航した「アラビック号」が横浜港に入る直前に、船室で津田梅子(以下、梅子)が書いた手紙である。
梅子は、明治政府、北海道開拓使が1871年、アメリカに送った5人の女子留学生のうちの1人だった。出発当時、梅子はわずか満6歳。最年少であった。
11年間の留学中、梅子はワシントン市ジョージタウンに住むチャールズ・ランマンとアデリン・ランマン夫妻のもとに寄宿し、実の娘同様に愛されて育った。冒頭の手紙は、アデリンに宛てて書いたものである。
1986年の夏頃、著者は「津田塾大学の物置で、創立者津田梅子のアデリン・ランマン宛の30年に亘る私信がどさりと発見された」という話を聞くことになる。
著者はそれまでにも、梅子が残した文書に目を通したことはあった。だがそれらはいずれも公的な立場から書かれたものであった。そんな著者が梅子の私信を読んでみると、日本の近代、明治の内面、当時そこに生きた人びとの姿と心などが、梅子の肉眼を通して映し出されているように感じられたという。
これらの手紙の発見は、津田塾大学にとってはちょっとした事件となった。手紙がそこにあった経緯は、今となってははっきりしない。手紙が書かれた期間は、梅子が日本へ帰国した1882年から、アデリンの晩年1911年までの間。梅子からアデリンへの手紙だけでなく、アデリンから梅子への返事も含まれていた。その数は数百通にのぼる。
アデリンは、梅子の帰国に際して、梅子が書いた文章や、日本から受けとった手紙などを持たせている。それらの文書類は、梅子の生涯を読み解く際の貴重な資料となった。
アデリンは他界する前に、これらの手紙を何らかの形で梅子に送り返したのだろうか。その他にも諸説あるが、いずれも憶測の域を出ていない。
ランマン夫妻は、6歳で渡米した梅子を11年間育てた。
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