「みなとみらい21(通称・みなとみらい)」とは、横浜市の沿岸部にある新都心の名称である。総面積は186ヘクタールあり、そのうち76ヘクタールは新たに埋め立てられた土地だ。かつての海岸線よりも沖合にあたる地区には、イベント会場として知られる「パシフィコ横浜」を擁している。
みなとみらいの特徴は、官民連携で新都心開発が行われたという点だ。三菱地所が保有する「三菱重工横浜造船所」があった土地に加えて、横浜市の「国鉄清算事業団」の土地、横浜市とUR住都公団が所有する「新しく埋め立てられた土地」の3つの土地が、みなとみらいには含まれている。
みなとみらいは今でこそ、デザイン性の高いオフィスビルや、高級マンションが立ち並ぶラグジュアリーな景観を備え、憧れの念をもって見られている。しかしかつては造船所と、港に荷揚げされた物資を運ぶ貨車の引き込み線があるのみで、昼も夜も金属音が鳴り響き、溶接の火花が激しく飛び散る地域であった。
明治時代に「富国強兵」と「殖産興業」という標語を掲げ、国の近代化を進めていた日本政府は、欧米から技術を学ぶために多くのエンジニアを招聘した。日本が短期間のうちに近代化を成し遂げた背景には、優秀な外国人エンジニアの貢献があった。
この時代、戊辰戦争で新政府側を支援していた英国と日本は、特に友好的な関係にあった。英国人のヘンリー・スペンサー・パーマーは、イギリスの植民地であったインド、カナダ、ニュージーランド、香港などに赴任した後、1883年に日本にやってきた。
神奈川県はパーマーに横浜上水道建設を任せ、約40kmに及ぶ水道工事を成功させた。そのパーマーが横浜上水道の次に着手したのが、横浜港の整備である。
パーマーは「港湾の発達には、船の修繕所や倉庫など、港に付随する設備の充実が不可欠である」と主張した。これを受けて日本の資本主義の父とも言われる渋沢栄一や、横浜の財界人たちが横浜船渠(せんきょ)を1891年に設立した。後の三菱重工横浜造船所である。船渠とは、またの名をドックともいい、船舶の製造、修理などに際して用いられる設備のことだ。
1894年に日清戦争、1904年に日露戦争が始まると、横浜船渠は船の修繕に加えて、造船事業を開始した。横浜船渠は海軍からの依頼を受け、多くの艦船の建造を担うこととなり、数千人の労働者が横浜で働くこととなった。現在の横浜港のシンボルであり、奇跡の幸運船と呼ばれる日本の貨客船「氷川丸」も、この造船所で生まれたものだ。
造船業は、戦前から戦後にかけて日本の基幹産業として日本経済を牽引した。それは横浜においても同様であった。三菱重工横浜造船所は多くの雇用を生み、横浜経済に力を与えた。
1983年にみなとみらいの開発が始まった。この年は、すべての日本人が同じように豊かさを感じることができ、最も人々の経済格差が少なかった「一億総中流」の時代、その終わりの年であった。
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