日本全国の街なかや郊外の風景の中には、アメリカ文化が当然のように浸透している。しかしこれは過去数十年で形成された風景だ。いまの日本の街やライフスタイルの成立には、戦後のアメリカ文化との関わりが大きく影響している。
日本全体がアメリカに憧れ、それが経済成長の原動力となった時代があった。日本企業も米国流のシステムを取り入れ、清涼飲料業界や外食産業といった第三次産業が大きく成長した。これらの企業で働く人の地位や収入も向上し、日本のめざましい経済成長の一翼を担った。
1970年に大阪万博が開催された。経済成長のただ中に開かれた大阪万博には、77カ国が参加した。万博のパビリオンのひとつ「アメリカ館」では、アメリカ最大のファミリーレストランであるハワード・ジョンソン社が出店を予定していた。
しかし1970年、アメリカ経済は悪化の一途をたどっていた。ベトナム戦争の戦費がかさんだことが影響し、日本には「ファミリーレストラン」という概念も存在しなかったこの時期、すでにアメリカのファミリーレストランは終焉の時を迎えようとしていたのだ。大阪万博に出展予定であったハワード・ジョンソン社も経営が破綻しかかっており、業績不振のために大阪万博に出展できなくなってしまう。
そこで白羽が立ったのが、のちにファミリーレストラン「ロイヤルホスト」を運営することになる日本のロイヤル社(現・ロイヤルホールディングス株式会社)だ。大阪万博に出展したロイヤル社の4店舗は大繁盛し、大阪万博を境に、日本にはアメリカ方式のシステムを取り入れた外食産業が次々と上陸、日本人にとっての外食の時代が幕を開けた。
外食文化の浸透に伴って、日本の街の景観も変わっていった。モータリゼーションによる道路の開発と時を同じくして、フランチャイズ・チェーン・システムを取り入れた外食店舗が、次々と出店攻勢に打って出た。
これにより周囲の景観との調和よりも、集客効果を重視した鮮やかなカラーの看板が林立し、日本全国どこを切っても同じ「金太郎飴」のような風景が見られるようになった。同時に、かつての街の賑わいの中心であった商店街の衰退が始まった。
アメリカの後追いによる無計画な都市開発の結果が、いまの日本の都市構造にあらわれているといえる。
現代の地方都市には、かならずと言っていいほど商店が立ち並んでいる。近代的な商店街が成立したのは、200年ほど前のことだ。
18世紀後期のヨーロッパの都市は、多くの通行人と馬車でごった返していた。交通手段として主に利用されていたのは馬車であったが、馬の糞尿のために街は悪臭を放っていた。馬糞を避けるために生まれたのが、車両通行禁止のアーケード商店街であった。世界初のアーケード商店街といわれるロンドンのバーリントン・アーケードは1819年に建造され、現代でも人気のショッピング街だ。
19世紀末になると工業化に伴い、都市の賃金労働者の生活は安定し、中流家庭が増加した。生活に余裕が生まれた人々は、街に出てお金を使うようになる。
こうした人々の消費意欲に応えるように誕生したのが百貨店だ。
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