宮本武蔵(以下、武蔵)の生涯には、謎も多い。一説によれば、戦国時代の末期に岡山県北東部あるいは兵庫県南部に生まれ、13歳のころから兵法者と命懸けの勝負をしていたという。
21歳のときに京へ上った武蔵は、天下の兵法者と勝負を重ね、すべてに勝利する。中でも足利将軍家の兵法師範であった吉岡一門との戦いで、その名を轟かせることになった。その後も諸国を回りながら武芸者と勝負をし、武者修行を続けていった。
武蔵は20代の最後に佐々木小次郎と勝負することになる。関門海峡の無人島の舟島(のちの巌流島)で、小倉藩の兵法師範だった小次郎を一撃のもとに倒すのである。
1640年、59歳で肥後熊本の細川家の客分となった武蔵は、以後没するまでこの地で過ごした。1643年の秋には霊厳洞にこもって『五輪書』を書き始めたが、約1年後に病に倒れる。手厚い看護を受けたものの、1645年の春、『五輪書』を書きあげて間もなく息をひきとった。
『五輪書』は兵法を5つの道に分け、「地(ち)」「水(すい)」「火(か)」「風(ふう)」「空(くう)」の5巻として書きあらわしたものだ。要約では、「地」「水」「火」「風」「空」それぞれの巻の中から、いくつかの項目を取り上げる。
地の巻においては、兵法の道のあらましや、武蔵の流派の見かた・考えかたを説いている。兵法におけるまっすぐな道の地ならしをすることになぞらえ、地の巻と名付けられた。
二刀流と称するのは、武士は将も下級の兵士も二刀を帯びるのがつとめだからである。この二刀の長所を世に知らしめるために、その兵法を二天一流と呼ぶ。
二天一流では、初心者でも太刀・刀を両手にもって修練する。長い刀でも勝ち、短い刀でも勝つ。どんな武器でも勝てるという精神を身につけなければならない。
何事にも拍子があるものだが、特に兵法では拍子を大切にする。
まず自分に合う拍子、合わない拍子を見極めることだ。さらに、相手の拍子にさからうことを知らなくてはならない。戦いにおいては、敵の拍子を知ったうえで、敵の予想外の拍子をもって、知略によって目に見えない「空の拍子」を生み出して勝つのである。
第2は、水の巻である。水は器にあわせて形をかえ、一滴ともなり、また大海ともなる。そんな水の清らかさを心に抱いて書かれたのが、水の巻だ。
太刀をもつときは、親指と人差指をやや浮かすようにし、中指はしめず、ゆるめず、薬指と小指をしめるようにする。太刀をもった手の中にゆるみがあるのはよくない。常に「敵を斬る」という思いでもつべきである。試し切りであっても、実際の戦いであっても、同じことだ。
太刀をどう使うにせよ、固まってしまってはならない。凝り固まるのは「死」の手であり、そうしないことが「生」の手である。
「有構無構」――構えがあって構えがない――とは、太刀を型にはめて構えるべきではないということだ。太刀は、敵の出かたや場所、状況に応じて、敵を斬りやすいように持つものである。
上段の構えも少し下げれば中段となり、中段も少し上げれば上段となる。構えというものはあってないもので、とにかく敵を斬ることが重要だ。きまった形にとらわれてはいけない。
第3は、火の巻である。この巻には戦いのことが記されている。火は大きくなったり、小さくなったりしつつ、すさまじい勢いをもつものだ。火の巻では、戦いのことをそんな火のありようになぞらえて書いている。
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